エンジン一筋「本田宗一郎」が四輪車進出で経産官僚を「バカヤロー」と怒鳴りつけた日

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世界最強・最速のエンジン

 もし、通産省の圧力に屈して自動車の製造を断念していたら、今日のホンダはなかった。モノづくりを規制し、人間の自由な創造力や可能性に国家権力が介入することを、宗一郎は絶対に許せなかった。

 モノづくりの真骨頂を示す逸話が残っている。

 1986(昭和61)年、ホンダのターボチャージャーエンジンがF1で連戦連勝し、その圧倒的な勝ちっぷりを面白く思わないFISA(国際自動車スポーツ連盟、現・FIA[国際自動車連盟])は、熱効率の高いターボエンジンを禁止し、自然吸気エンジンのみのレースに移行するとの決定を下した。ターボエンジンの開発技術者でF1チーム総監督の桜井淑敏らが、ルールの突然の変更に憤慨し、宗一郎に直訴した。

 このとき、宗一郎はこう言った。

「ホンダだけがターボ禁止なのか? 違うのか? 馬鹿な奴等だ。ホンダだけに(ターボを)規制をするのなら賢いが、すべて同じ条件でならホンダが一番速く、一番いいエンジンを作るのにな。で、なんだ、話ってのは?」

「いいです、何でもありません」。桜井は黙って引き下がった。桜井ら技術屋たちは、宗一郎の言葉に発奮して、ついに世界最強・最速のエンジンを完成させた。

経営の天才、藤澤武夫

 ホンダ以前の日本車に対する評価は、「欧米のまねをしてうまく作った」の域を出なかった。ところがホンダの車が登場して、世界のマーケットは初めて、ホンダの独創性を高く評価した。

 宗一郎は戦後、ホンダを設立したとき、藤澤武夫と出会う。イノベーター(起業家)と有能な経営者のコンビが誕生した。

 宗一郎は技術の分野のことだけを、やりたいようにやり、経理や販売など不得意の分野はパートナーの藤澤に任せた。2人は低公害型エンジンCVCCを開発し、ホンダの車を世界のクルマに押し上げた。

 実際の経営を担ったのは藤澤だった。

〈「藤澤さんと出会わず、あのまま本田さんだけでやっていたら、本田技研は10年ももたなかったのではないか」

 二代目社長の河島喜好は、こう回顧している〉(『20世紀日本の経済人』日経ビジネス文庫)。

〈藤澤という稀代の経営の天才が、天真爛漫な職人肌の技術者を踊らせ、“ホンダ教の教祖”に祭り上げたという人もいる。

 藤澤は苦境に陥ると、誰も想像しなかったようなアイデアをひねり出して乗り切った。

 自転車屋にダイレクトメールを送り、一夜にして5500店もの二輪車取扱店を作り上げたのも藤澤だった〉(同前)

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