エンジン一筋「本田宗一郎」が四輪車進出で経産官僚を「バカヤロー」と怒鳴りつけた日

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 自動車レースの最高峰、フォーミュラ・ワン(F1)第9戦、オーストリア・グランプリ(GP)が7月4日に行われ、レッドブル・ホンダのマックス・フェルスタッペン(オランダ)が3連勝で今季5勝目、通算15勝目を挙げた。

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 レッドブル勢は第5戦のモナコGPから5連勝、ホンダとしても1988年以来33年ぶりの5連勝となった。

 ホンダ(本田技研工業)は2020年10月2日、F1から2021年シーズンを最後に撤退すると発表した。

 ホンダが初参戦したのは1964年。撤退と再挑戦を繰り返し、2015年からエンジンなどのパワーユニットを提供するかたちで4度目の参戦を果たした。19年のレースではホンダ勢として13年ぶりに優勝するなど、見事な復活を印象づけた。21年はレッドブル・ホンダとアルファタウリ・ホンダの2チームにパワーユニット提供している。

 F1撤退の理由として、「今後は環境対応のため燃料電池車(FCV)や電気自動車(EV)などの研究開発に資源を集中させる必要がある」と説明した。かっこよく言えば脱エンジンである。

 F1から今季限りで撤退するホンダは、連勝のさなかの6月23日、東京都港区のホテルで定時株主総会を開いた。

 株主から脱エンジン車宣言について厳しい質問が飛んだ。「創業者の本田宗一郎氏が悲しむのではないか!!」。社長の三部敏宏(21年に就任)は「今後は脱炭素の国際レースで勝負していてく」と明確に答えた。勝負するフィールドが変わるということだ。

「バタバタ」で一世を風靡

 だからホンダは2040年、世界で売る新車をすべて、走行時に二酸化炭素を出さないEVかFCVに切り替える。純粋なエンジン車だけでなく、エンジンと電池を併用するハイブリッド車(HV)にも見切りをつけるという決断である。日本メーカーの先頭を走る覚悟がここにはある。

 創業者の本田宗一郎はエンジン一筋で、世界を疾駆した。そのホンダが脱エンジンに方向転換したのである。

 本田宗一郎は1906(明治39)年11月17日、静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)の鍛冶屋の長男に生まれた。

 自動車修理工場の小僧から身を起こした宗一郎の天才ぶりは戦前、近隣に鳴り響いていた。特許の山を築き、日本楽器製造(現・ヤマハ)社長の川上嘉市が「日本のエジソン」と称えるほど才気にあふれていた。宗一郎は「おれが作れないものはクモの糸ぐらいだ」と豪語していた。

「世界一の自動車を作りたい」。途方もない夢を抱いた宗一郎は戦後まもない1946(昭和21)年、本田技術研究所を設立。払い下げを受けた通信機用エンジンを付けた自転車バイク、通称「バタバタ」を作り始めた。騒々しいエンジン音と湯たんぽの燃料タンクで一世を風靡した。

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