ジョニー・デップが写真家を好演 映画「MINAMATA-水俣-」が伝える報道の精神

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少しずつ患者たちと距離を詰めていく様子

 映画では、地域で暮らす人々にユージン・スミスが強引にカメラを向けようとし、次々に断られる日々が描かれる。胎児性水俣病の智子とその両親が暮らす家に行っても、両親の話を聞くことができたのに智子の撮影は断られてしまう。そうしたなかで水俣病を抱える若者とカメラを通して交流するなど、患者たちとの距離が少しずつ近づいていく。

 水俣病の苦悩を訴える現場に通い続けたユージンに対し、患者たちが撮影を承諾する意思を示すために次々に手を挙げる場面は、「取材する側」と「取材される側」との間で“信頼”こそが大切な原点だということを改めて教えてくれる感動的なシーンだ。報道の仕事で取材相手との距離感をどうとっていくのか、をさりげなく教えてくれる。メディア志望の学生たちにとって教科書のような一面がある。

 だが、水俣病の悲惨な現状を世界中に報道した後も、ユージン・スミスは“スーパーマン”ではない。あくまで“弱い人間”として描かれ続けている。実話ばかりの中での数少ないフィクションとして差し込まれるエピソードとして、チッソの社長から現金入りの封筒を渡される場面がある。最終的にユージンは受け取りを拒むものの、「もらっていれば……」と後悔するような様子も描かれている。どこまでも迷い続ける“弱さだらけ”の男。あくまで“人間くさい”のだ。それがジョニー・デップの描くユージン・スミスだ。

 そして冒頭で触れた「入浴する智子と母」の撮影場面は、写真を正確に再現するかのように神々しさに包まれている。

 人とは何なのか。生きるとは何なのか。愛とは何なのか。撮影するユージンも、手伝っていたパートナーのアイリーンも、そうした普遍的なものを感じとりながら撮影現場で息を潜めていた様子が伝わってくる。

 そうした普遍的なものを追求しながら、苦しみのさなかにある患者たちの側から写真を撮り続けたユージン・スミス。チッソ本社で患者による抗議活動を撮影中、激しい暴行を受け、後遺症をともなう大けがをしてしまう場面は衝撃的だった。このけがが遠因でユージンが死亡したことは実話だ。

 もっとも、映画では途中途中に虚実が入り混じるエピソードが登場する。たとえば暗室などに使っていた小屋が火災に見舞われ、ネガなどが行方不明になる。なくなったはずのネガは、何者かによって、大けがで寝ている彼の病室に届けられる。

 こうしたシーンは、報道する側が権力や資本、暴力などに立ち向かうときに自ら血を流し、ときに負け続けるということを表現しようとしたのではないか。理不尽な現実のリアル。取材中の暴力が引き金になって命を落としたユージンの人生を通じ、ジョニー・デップは“負け続ける正義の姿”を描こうしたのではないか。そうした印象を受ける。

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