「いつ死んでもいいのかな…」 「熊谷6人殺し」遺族が憤る「加害者天国ニッポン」

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「悪いヤツ」の“特権”

 これに対して、東京地検特捜部の副部長などを歴任した若狭勝弁護士は、「個人的には上告するべきだったと思う」と前置きした上で、検察OBの立場からこんな見解を示した。

「昔から責任能力の問題はグレーゾーンで、さじ加減一つでどうにでも法的評価が可能。にもかかわらず地裁より上級審である高裁で『責任能力は限定的』と無期懲役の判断が下されたのであれば、それを覆す壁は厚くて高い。だから上告しても難しいという判断に至ったのではないか」

「責任能力」という揺らぐ基準をもとにひねり出される判決に対し、最高裁に不服を申し立てたい遺族の訴えは、検察の一声にかき消されてしまう。一方の被告は、自身の判断での上訴が可能で、ナカダは二審判決の「心神耗弱」の認定は誤りで、自分はそれ以上に深刻な「心神喪失」だったとして最高裁に上告した。この訴えは棄却され、二審の無期懲役が確定したが、遺族は最高裁の判断を仰ぐスタートラインにすら立てなかったのである。

 6人もの無辜の民を殺しておいて死刑を免れたナカダ。そして加害者のナカダには控訴・上告の権限が認められ、遺族ら被害者側にはそれが付与されていない。「悪いヤツ」だけに“特権”が与えられる……。

「日本の司法制度において、公訴権は検察に独占されており、被害者は、捜査や起訴、求刑、判決などの刑事司法手続きから排除されています」

 こう解説するのは、被害者学を専門とする常磐大学元学長の諸澤英道氏である。

「犯罪捜査や刑事訴追は、公共の利益のために行われると同時に被害者のためというのが国際的なコンセンサス。ところが日本では未だに、そのような原則が確立しているとは言い難い」

 諸澤氏によると、刑事司法手続きへの被害者参加に反対する刑法学者は多く、理解を得るのが難しいという。その背景には、日本の学部教育における「偏り」があると指摘する。

「日本の大学の法学部は加害者の人権を重視する教育を徹底してきた。特に有力大学の法学部教授は、昭和中期にそうした教育を受けた。だから被害者の視点が頭になく、現行制度の問題点を指摘する研究者が少ない。日本では相変わらず、被害者は『忘れられた人々』なのです。一方、ドイツやフランスの司法制度では被害者が起訴できます。その他の欧州諸国でも、刑事司法手続きへの被害者の参加が認められています」

 日本は世界の潮流から取り残されているのか。

 検察から一方的に「上告断念」を告げられ、涙を飲まざるを得なかった殺人事件被害者遺族は加藤さん以外にもいる。被害を受けた当事者側でありながら、司法手続きの「蚊帳の外」に置かれ、泣き寝入りするしかないという不条理――。

 加藤さんは今も、悔しさを胸の内に秘めている。

「検察にしか上告の権限がないのはおかしい。被害者側もできるよう、法律を変えるべきです。それには時間も労力もかかるかもしれませんが、働き掛けたい気持ちはあります」

 家族三人の命を突然奪われ、自宅に一人残された加藤さん。心をへし折られながらも、司法の矛盾に挑むその姿からあらためて浮き彫りになったのは、被害者よりも加害者の権利が重視されるという、「加害者天国ニッポン」の異形だった。

 警察にも、検察にも守ってもらえず法廷闘争を続ける加藤さんは、9月16日、一人で家族の七回忌を迎えた――。

水谷竹秀(みずたにたけひで)
ノンフィクション・ライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。10年超のフィリピン滞在歴をもとに、「アジアと日本人」について、また事件を含めた世相に関しても幅広く取材している。

週刊新潮 2021年9月15日号掲載

特集「未だ遺族は警察と裁判闘争 『熊谷6人殺し』があぶり出した『加害者天国ニッポン」より

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