ジェリー藤尾さん、次女が語る最期 長女と次女のゴタゴタを元妻が仲裁

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 昭和の名曲「遠くへ行きたい」は冒頭「知らない街を歩いてみたい」で始まり、「愛し合い信じ合い いつの日か幸せを」と情感溢れるサビへと続く。歌い手はジェリー藤尾。81歳で逝ったその波乱の人生は、幸せのうちに閉じたのだろうか。

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 ジェリー藤尾が8月14日、慢性閉塞性肺疾患(COPD)のため横浜市内の次女宅で亡くなった。生まれは中国・上海の租界で、談話によれば父親はNHKの上海支局に勤務するアナウンサー。イギリス人の母親とは青島(チンタオ)で知り合ったのだという。二人は20歳以上年が離れ、母親は16歳の頃にジェリーを産んだ。

 終戦後、家族は日本に引き揚げ、彼は幼少期を東京の高円寺で過ごしたが、

「ハーフであることを理由に差別を受け、いじめられた経験があると過去に告白しています。また、中学生時代に母親がアル中になり、最期は吐血して亡くなったそうです」(芸能記者)

 高校を中退後、新宿で最も幅を利かせていた愚連隊に所属。喧嘩に明け暮れた。

「刃物を手にした相手を素手で返り討ちにした話など、ヤンチャエピソードにはこと欠かなかった」(同)

 ジャズ喫茶に出入りし、バンドマンと知り合ったのを契機に芸能界入り。1958年、18歳で歌手として初舞台を踏み、翌年には銀幕デビューも果たす。61年、黒澤明監督の「用心棒」に出演し、62年には「遠くへ行きたい」が大ヒットするなどたちまち人気者に。

「64年、歌手の渡辺友子と結婚し、2女にも恵まれて“幸せ”一家としてCMにも多数出演しながら、86年に離婚。渡辺側がジェリーのDVを女性誌に告発するなど話題を撒いた。財産分与でも揉め、二人の娘が父親に味方して、長女が母親を“女のクズ”と罵る事態にもなりました」(同)

元妻が仲裁に

 イメージを損ねたジェリーは露出が激減。親交のある芸能人の葬儀に出かけるくらいで、晩年まで、目立った活動もなかった。

「2010年に千葉県の老人ホームに入居したものの、翌年の東日本大震災を転機に、娘二人それぞれの住まいに近い神奈川県のマンションに転居し、独り暮らしを始めます。やがて認知症に似た症状が現れて、今年に入っていったん長女に引き取られ、長女の娘、つまり孫娘に面倒を看てもらうことに。ところが、孫娘は心労が重なって倒れてしまったんですよ」(関係者)

 この時、父親に介護ヘルパーをつけるべしとする長女とこれに反対する次女の間で諍(いさか)いが生じるのだが、

「事態を知った元妻の渡辺さんが仲裁し、次女が引き取る形で決着した」(同)

 というから、最後に元妻が手を差し伸べてくれた格好だ。次女の板谷亜紀さんに話を聞くと、

「姉は娘と2人暮らしですが、2人じゃ介護は大変。男の人って重いじゃないですか。その点、うちは7人家族。男手もあるので父を引き取った。姉との喧嘩?しょっちゅうですよ」

 病状については、

「認知症ではありませんでした。死因は急性肺炎で、やはり煙草が祟(たた)ったんです。ヘビースモーカーで、若い頃は1日5箱も吸っていたという話。父は煙草が切れると“お守りがない”なんて言ってました。昨年12月、お医者さんに肺の状態が悪いと知らされてからは一本も吸ってません。体力的にちょっと疲れやすくなり、寝入ることも多かったんですが、調子がいい時は美空ひばりさんの歌を口ずさんだりしてました」

 眠るような最期だったという。きっと幸せのうちに旅立てたのだろう。

週刊新潮 2021年9月2日号掲載

ワイド特集「家族の肖像」より

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