夏の甲子園、14年連続出場の大記録を持つ伝統高といえば…聖光学園はタイ記録ならず

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 甲子園を目指す強豪校の中で今年、ある大記録に挑んだ高校があった。福島の強豪・聖光学院だ。その記録とは、「夏の甲子園連続出場記録」のタイ記録となる「14年連続出場」。が、福島大会準々決勝で光南に1-5で敗れてしまった。

 結果、この14大会連続出場という大記録を単独で守ることとなったのが、和歌山県が誇る古豪・桐蔭=旧制・和歌山中学である。和歌山中は1915年(大正4年)の第1回大会から29年(昭和4年)まで14年連続出場を果たし、地元では「和中の前に和中なし、和中の後に和中なし」とまでいわれた。まさに和歌山中(以降、和中と表記)は野球王国の最強チームなのである。

 中等野球創世記において全国的な強豪チームとしても知られた。なかでもひと際輝いたのが1921(大正10年)・22年(大正11年)に達成した史上初の夏連覇である。21年の第7回大会は好投手・北島好次と主砲・井口新次郎(早稲田大~大阪毎日新聞社)がチームの二枚看板。特に井口を中心とした強力打線は破壊力抜群で、和歌山大会で海草中(現・向陽)を32-0、和歌山工を39-0で粉砕し、奈良代表と争う紀和大会でも11-1で郡山中(現・郡山)を降して全国大会にコマを進めたのである。

 迎えた本大会でも初戦からその打棒で相手を圧倒した。神戸一中(現・神戸=兵庫)を20-0、釜山商(朝鮮)を21-1、豊国中(現・豊国学園=福岡)を18-2と撃破して待望の決勝戦へ進出。最後の大一番も京都一商(現・西京)相手に16-4という一方的な勝利を収める。なんと4試合で奪った得点は実に75にも達した。これは大会史上チーム最多得点として今でも燦然と輝いている。まさに大暴れでの初優勝だった。

 用具もまだ粗悪で、飛ばない球を使用した投手優位の時代にもかかわらず、計4試合で本塁打3本、三塁打5本、二塁打に至っては11本も記録している。さらにこの大会で和中がマークした打率3割5分8厘は50年(昭和25年)第32回大会で鳴門(徳島)に塗り替えられるまで大会記録となっていた。4試合で喫した失点も7。得失点差68は100年近くを経た現在でも破られていない。

 翌22年の第8回大会、前年はショートを守りチームを優勝へと導いた井口が今度はエースとして帰ってきた。前年のような猛打のチームではなかったが、この井口が投打に活躍、ここ一番の勝負強さで勝ち上がっていった。初戦から早稲田実(東京)を8-0、立命館中(現・立命館=京都)を4-1、松本商(現・松商学園=長野)を2-1と降して2年連続決勝戦の舞台へと進出したのである。

 雌雄を決する相手は名サウスポー・浜崎真二(元・阪急)を擁する神戸商(兵庫)。井口との投手戦が予想されたが、1回裏に井口が立ち上がりを攻められいきなり3失点を喫してしまう。4回裏にも1点を追加され、リードを広げられた和歌山中は7回まで無得点と敗色濃厚だった。

 しかし8回表、疲れのみえてきた浜崎を和中打線がようやくとらえる。前年を思わせる猛打で一挙5得点と逆転に成功するのだ。9回表にも3点を追加し、勝利を決定づけた。こうして8-4で勝利し、ここに夏の大会史上初の連覇が達成されたのである。

「和歌山中に負けたチームは敗者復活」の特例も

 この頃の中等野球は、異常なほどの盛り上がりをみせていた。そのタイミングで大会2連覇したことで、その名を瞬く間に全国に轟かせた。連覇を達成した年の12月には、当時皇太子だった昭和天皇が行啓され、現役生対OBの試合を台覧。皇太子にとって初めての野球観戦だったこともあり、「野球といえば和歌山」を象徴する出来事となったのである。

 このとき、県や市、そして有志らの寄付で、記念の応援スタンドが作られた。バックネット裏からライトスタンドまで長さ約90メートル。今でも桐蔭のグラウンドにはこのスタンドが残っている。

 思わぬルールが生まれたのはこの翌23年(大正12年)である。和中のあまりの強さを考慮し、県予選では「和歌山中に負けたチームは特例として敗者復活を認める」という特別ルールが設けられたのだ。ただ、このルールの恩恵に与かった海草中が、和中との再戦で善戦したこともあり、この特別規定は1年限りで廃止されてしまったのだった。

 この特別ルールをあざ笑うかのように、和中はこの年も地方大会を勝ち抜いて本大会に出場。史上初の3連覇を狙った。北島や井口が去ったチームは2連覇時と比べて小粒になってはいたが、それでも決勝戦に進出する。だが、初出場の甲陽中(現・甲陽学院=兵庫)の前に2-5で逆転負けを喫し、惜しくも史上初の3連覇を逃している。

 その後、24年(大正13年)に始まった春の選抜でも和中は第1回から11年連続出場という偉業を達成。不世出の豪腕サウスポーといわれた小川正太郎(早稲田大~毎日新聞社)を擁して27年(昭和2年)の第4回大会では優勝、翌28年(昭和3年)の第5回大会では準優勝を成し遂げている。

 現校名の桐蔭となった戦後も48年(昭和23年)・61年(昭和36年)の夏の甲子園で準優勝、まさに和歌山県の高校野球史に燦然と輝く巨星なのである。

 さて、和中が保持する夏の甲子園大会14大会連続出場という大記録だが、今年13大会連続で記録が途切れた聖光学院は、昨夏の福島独自大会で優勝しており、これが甲子園につながる大会だったなら、“14大会連続”の最多タイ記録に並んでいたことになる。現在、これに続くのは7月25日に達成した作新学院(栃木)の10大会連続。ただ、和中に並ぶまでにはまだ4年もある。

上杉純也

デイリー新潮取材班編集

2021年8月23日掲載

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