松下幸之助の長女「幸子さん」は無念の死 ゴッドマザーの我執に抵抗し続けた経営陣

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“手切れ金”50億円

 ずっと冷や飯を食ってきた正治は、78歳にして松下電器の最高意思決定権者の座を手に入れた。その最初の決断がMCAの買収だったが、動機が不純なM&Aは失敗するに決まっている。

 松下家の人々は、一族の総領となった正治を先頭に立て、何度も何度も正幸を社長に擁立しようと試みた。

 1990年代には、大政奉還を迫る松下家と世襲に反対する経営陣とのエンドレスの暗闘が続いた。松下電器の歴代社長にとって、最も重要な仕事は世襲経営を阻止することだった。端的に言おう。「正幸を社長にしないこと」のためにエネルギーを割かざるを得なかった。

 幸之助は3代目社長の山下に、「ポケットマネーを用意するから正治を会長から引きずり下ろせ。引退させたら二度と経営に口を出させるな」と言い渡した。幸之助自身がやれなかったことを、正治の遥か後輩で、しかも創業家以外の人間ができるわけがなかった。社内の伝承では、「幸之助さんは30億円とか50億円とかいう巨額の“手切れ金”を用意したそうだ」となる。

 幸之助から申し送りは4代目社長の谷井昭雄に引き継がれた。

谷井社長の追い落とし

 社長の谷井昭雄は再三、正治に「会長引退をお願いします、と申し入れた」(松下の役員OB)。正治は「なんで辞めないかんのだ!?」と反駁し、最後は怒鳴り合いになったと伝わっている。

 こうした時の正治の怒りは凄まじかったという。正治は谷井ら経営陣に反撃する機会をうかがっていた。

 そして、子会社ナショナルリース事件が、経営陣を追い落とすための有力な武器となった。ナショナルリースはもともと松下電器の製品を月賦で買う消費者にファイナンスをする会社だったが、バブルの時代にノンバンクとして不動産会社や建設業に貸し込んだ。1991年9月、大阪の料亭の女将・尾上縫(1930~2014)への日本興業銀行などの不正融資が発覚。これに連座するかたちでナショナルリースに500億円の不良債権が発生した。

 ナショナルリースのスキャンダルが表沙汰になると、会長の正治は、ここぞとばかりに経営責任を追及した。92年には大型冷蔵庫の欠陥が明らかになった。正治の執拗なまでの経営責任の追及に力尽きた社長の谷井は1993年2月、任期途中で社長の椅子を投げ出した。

 谷井は「やられたらやり返す」権力闘争には不向きな人物だった。正治の方が一枚も二枚も上手だった。

大福餅の手配

 5代目社長には営業畑出身の森下洋一(1934~2016)[在任1993~2000年]が就いた。正治は、そのまま会長の地位にあった。

 森下はバレーボールの選手として松下の実業団チームに入った変わり種だ。選手を引退した後、特機営業という産業用機器を販売する傍流の部署で実績を積んだ苦労人だ。

 正治の指示は実に熱心に聞いて、結果を必ず、きちんと報告したことから、正治の信頼を勝ち取った。

 正治が大好きなゴルフをする時は、ゴルフ場の手配から一緒に回るメンバーの選定、正治の送迎のクルマの手配など、社長になってからも森下が自分でやっていた。

 正治と森下は大福餅でつながっていた。正治はゴルフ場のクラブハウスで大福餅を頬張る習慣があった。森下はその大福餅がきちんと準備できているかどうか、事前に自らチェックした。

 とうとう正治は、森下を差し置いて人事まで壟断(ろうだん)した。正治が首を縦に振らない限り部長クラスの人事まで決まらなかったといわれている。松下電器のガバナンスは死んでしまった。

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