松下幸之助の長女「幸子さん」は無念の死 ゴッドマザーの我執に抵抗し続けた経営陣

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「創業理念以外は全て破棄」

 正治が、というより幸之助の長女・幸子が、あれほど執念を燃やした正幸の社長就任を断念せざるを得なくなったのには、松下電器に松下興産を救済してもらう必要があったからだ。正幸(の社長就任)を取るか、松下興産の存続かの、二者択一だった。松下興産が倒産したら、それは即、松下家、松下一族の破綻に直結する。究極の選択で、正幸の社長就任を断念し、破産を回避したのである。

 2000年の社長人事が最大のヤマ場となった。森下も、さすがに正幸を社長に引き上げることを断念し、中村邦夫(82)を6代目社長(在任2000~06年)に指名した。世襲問題は決着した。松下興産問題の責任を取り、正治は名誉会長に退いた。正幸は副会長に祭り上げられた。

 中村は1987年から10年間、米英の現地法人のトップを務め、国内にはいなかったため松下家とのしがらみにとらわれることがなかった。「破壊と創造」をスローガンに「松下幸之助の創業理念以外は全て破壊してよし」という、わかりやすい号令を下した。

 中村は課長時代、たまたまエレベーターで幸之助と乗り合わせたことがあった。幸之助は、あったかそうなオーバーを着ていた。「私もそんなあったかいオーバーを持つことができますか?」と中村が尋ねると、「がんばりなはれ。がんばれば着られますがな」との答えが返ってきたというエピソードが残っている。

松下家出身の取締役が消滅

“脱幸之助”の総仕上げは、2008年10月1日の社名変更である。松下電器産業からパナソニックに変わった。社名から創業家、松下の名前が消えた。

 2012年、正治が死去。正治は「毎晩のように夢を見るが、70%は幸之助が出てくる」と語ったことがある。自尊心をズタズタにされ、憎悪の感情しか抱いていなかった幸之助の悪夢に、正治は最後まで苦しめられた。「経営の神様」を越えることができない2代目経営者の悲哀を背負った人生だった。

 正幸は2017年に代表権を返上するなど、影響力はほぼなくなっていたが、それでも「パナソニック(松下電器)は松下家の会社」だった時代の名残がまだあった。

 創業者・幸之助の孫で副会長の正幸は、2019年6月27日開催の定時株主総会で取締役を退任し、特別顧問となった。これで松下家は、パナソニックの経営から完全に退いた。

 2018年3月、パナソニックは創業100周年の節目を迎えた。これを期に正幸が退任を自分から申し出たとされる。取締役から創業家出身者がいなくなるのは、創業以来初めてのことだ。

たった1つの功績

 正幸の退任はパナソニック改革の象徴的な出来事だが、正幸の功績が一つある。彼が洗濯機事業部長だった折、「御曹司に恥をかかせられない」ということで、「愛妻号」というとても頑丈な製品を世に送り出した。「愛妻号」は白物家電の傑作といまだにいわれている。

 実は正幸の長男・幸義(33)は2011年春、パナソニックに入社している。慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)卒。しかし、今や松下家の影響力はない。再び松下家がパナソニックに君臨することはなさそうである。

 正治が、というより幸之助の長女・幸子が、あれほど執念を燃やした正幸の社長就任は果たせなかった。無念だったにちがいない。

 松下電器の1990年代の経営の迷走は、松下家、とりわけ幸子が息子の正幸を社長に就けたいという我執から引き起こされた。ギリギリのところで松下電器は社会に開かれた会社(公器)としてのバランス感覚を失わずに踏みとどまった。

 松下電器のOBたちにとって、松下家のゴットマザー・幸子の死は、感慨深いものだったに違いない。(敬称略)

有森 隆(ありもり・たかし)
経済ジャーナリスト。早稲田大学文学部卒。30年間全国紙で経済記者を務めた。経済・産業界での豊富な人脈を生かし、経済事件などをテーマに精力的な取材・執筆活動を続けている。著書には『日銀エリートの「挫折と転落」--木村剛「天、我に味方せず」』(講談社)、『海外大型M&A 大失敗の内幕』、『社長解任 権力抗争の内幕』、『社長引責 破綻からV字回復の内幕』、『住友銀行暗黒史』(以上、さくら舎)、『実録アングラマネー』、『創業家物語』、『企業舎弟闇の抗争』(講談社+α文庫)、『異端社長の流儀』(だいわ文庫) 『プロ経営者の時代』(千倉書房)などがある。

デイリー新潮取材班編集

2021年8月16日掲載

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