夏の甲子園、まさかのサヨナラ劇…「報徳の本盗」「宇部商の悲劇」そして「金足農の奇跡」

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 今年で103回目を迎えた夏の甲子園大会。過去の名勝負には、サヨナラゲームも多いが、その中には「まさか!」と目を疑いたくなるような思わず、ビックリの幕切れもあった。そんな“珍サヨナラシーン”が演じられた伝説の3大試合を振り返ってみよう。

「やれそうだという顔をしていた」

 まさに「あっと驚く」サヨナラホームスチールで決着したのが、1967年の1回戦、報徳学園vs大宮である。この試合は、木製バット時代にもかかわらず、両チーム合わせていずれもラッキーゾーンを越えてスタンド入りの4本塁打が飛び出した歴史的な空中戦でもあった(1試合4本塁打は当時の大会新)。

 先手を取ったのは大宮。2回、先頭の吉田誠が左中間席に先制ソロを放ったあと、1死から死球の鈴木治彦(※鈴木葉留彦の登録名で、のちに西武などで活躍)を一塁に置いて新井良雄が左越え2ラン。3対0とリードした。同年の大宮は後に5人がプロ入りした超高校級のチームだった。

 報徳も負けずに一発攻勢をかける。その裏、大西勝の左越えソロで1点を返すと、8回にも米田俊次の右越えソロが飛び出し、1点差に迫った。

 だが、9回は簡単に2死を取られ、あとがなくなった。代打・菅原正和も0-2と追い込まれたが、大宮のエース・金子勝美は勝利を意識したのか、ここから4球連続ボールで四球を与えてしまう。

 次打者・吉田和幸はこの一瞬のほころびを見逃さず、2-0からの3球目を左中間真っ二つの同点三塁打。なおも2死三塁と一打サヨナラのチャンスに、大きくリードを取っていた俊足の吉田は、次打者・太田富夫の2-2からの5球目、迷わずスタートを切り、大会史上初のサヨナラホームスチールを成功させた。

 最後の土壇場で大胆不敵な作戦を用いた清水一夫監督は「吉田と顔が合ったときにホームスチールがやれそうだという顔をしていた。以心伝心でしょうね。だから、サインを出した」と、してやったりの表情だった。

「何が起こったのかわかりません」

 これまた大会史上初となるサヨナラボークで試合が決まったのが、98年の2回戦、宇部商vs豊田大谷だ。宇部商の2年生左腕・藤田修平は、8回まで8安打を許しながらも要所を締め、2対1とリードして9回を迎えた。

 だが、勝利目前の2死一、三塁から意表を突く重盗を決められ、試合は延長戦に突入する。藤田は10回以降を無失点に抑えたが、味方打線も毎回走者を出しながら決定打を欠き、15回2死満塁のチャンスも逃してしまう。

 そして、2対2で迎えた15回裏、先頭打者・前田悠貴に中前安打を許した藤田は、次打者・川上貴史を二ゴロに打ち取ったように見えたが、エラーで三進を許してしまう。

 このピンチに玉国光男監督は満塁策を指示し、無死満塁で8番・上田晃広との勝負になった。まさかのアクシデントが起きたのは、1-2と追い込んだあとの4球目だった。セットポジションに入ろうとした藤田は、一度外角のサインを出した捕手・上本達之が内角に変更したのを見て、反射的に動作を中止してしまった。

「ボーク!」。球審が両手をVの字に広げて叫んだ直後、三塁走者・前田がガッツポーズしながら生還し、あっけなくゲームセットとなった。

 マウンドで呆然と立ち尽くした藤田は試合後、「全然覚えていません。頭の中が真っ白になり、何が起こったのかわかりませんでした」と悔恨の涙にくれた。

 ボークは、7回ごろから豊田大谷の二塁走者がサインを盗んでいるように感じたバッテリーが、一度フェイクのサインを出したあとで、新たなサインを出し直す方式に変えたことが、混乱を招いた結果だった。

 高野連は同年12月の全国理事会でサイン盗みを禁止したが、導入がもう半年早ければ、おそらく宇部商の悲劇はなかったことだろう。

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