名将・野村克也氏が“人生でただ一度、号泣した場面”とは
“親孝行な選手”は必ず伸びる
〈「親孝行な選手は出世する」
私が監督をしていて辿り着いた、一つの真理だよ。
たとえば甲子園で活躍した好素材であっても、親の前でわがままに振る舞うような選手だと、プロに入ってから必ず苦労する。上手く行っているうちはいいが、いったん壁にぶつかると、上手くいかないことに自分で腹を立て、自暴自棄となってしまうんだ。
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一方、親の前でも、監督や他の選手に対するのと変わらず礼儀正しく振る舞える選手は、プロでやっていく見通しが立ちやすい。小さな頃から親が厳しくしつけたお陰で、そういう選手は、技術的に未熟でも、プロの世界で揉まれることを苦にしない。結果として、良くなって行くからだ。
だから私は、スカウトには、その選手の両親との状況にも着目しろと言ってあった。親孝行な選手は必ず伸びる。手前味噌だが、私がそうだったから……〉(新潮社刊『野村克也の「人を動かす言葉」』より)
野村克也さんを支えた母
ドラフト1位を筆頭に、ルーキーたちの一挙手一投足に注目が集まるプロ野球キャンプ。各球団の指導者や、取材に当たる解説者・記者が注目する項目はさまざまだが、昨年2月に亡くなった名将・野村克也氏(享年84)は、「親孝行かどうか」という点も重視していたという。母子家庭で育った野村氏は、少しでも早く母親を楽にさせてあげたい一心でプロ野球選手になり、1軍選手に定着してからも努力を続けた。その結果、球界を代表する大スターになったのはご存知の通り。野村氏をそこまでの大選手に育てた母親とは、どのような人だったのだろうか(以下、引用は全て同書から)。
〈1935年、京都府竹野郡網野町に生まれた私に、父親の記憶はない。私が2歳の時に戦争に行き、3歳の時に戦死した。食料品店を経営しており、看護婦だった母との出会いは、まさに患者と看護婦だった。
しかし、物心ついた私が目の当たりにしたのは、独り身の母が苦労ばかりしている姿だった。父の死後、必死に働いてくれたけど、はっきり言って貧乏だったし、家は借家。賃料が上がる度に、より安い物件を探し、引っ越ししたもんだ。
働き過ぎがたたったんだろう。私が国民学校2年のときに子宮ガンと判明したんだ。こちらは発見が早く、事なきを得たんだけど。翌年には直腸ガンに罹患。その姿がもう、痛々しくてね。幼心にも思ったよ、「出来れば代わってあげたい」と……。母は結局、昔勤めていた京都市内の病院に入院。私が3年、兄が6年のときだった。私たち兄弟は父の知り合いの家に預けられ、そこから学校に通うことになった。だけど、嫌だったなあ。貧乏はしても、親がそばにいるのといないのとではエライ違いだよ。ヨソの家では、「お腹すいた」のひと言だって言えないんだから〉
“親の好きにさせてくれるのも親孝行だよ”
母は幸い、一命を取り留めた。しかし後年、野村氏がプロ野球選手になることには大反対したという。「こんな田舎で育ったお前が、あんなきらびやかな世界でやって行けるわけないじゃないか! ちゃんと就職して、堅実に暮らしなさい」。この時は高校時代の恩師が間に入り、「3年間」という期限を設けて、プロ入りを認めてもらった。野村氏は少ない俸給から毎月1000円を母へ仕送りする一方、猛練習を重ね、約束の3年後、南海ホークスの1軍正捕手に定着する。
〈本塁打王を獲り、三冠王を獲り……稼げるプロ選手になった私の元に、母がやって来たのは、南海時代だったな。場所は大阪球場だった。聞くと、頼みがあるという。「家を買って欲しい」というのだ。頼られた私は有頂天。多くの借金をしてでも、母のために立派な家を買おうと思った。
ところが母は言うんだ。「今、住んでいるところの近くにちょうどいい一軒家があるので、そこでいい」と。聞けば、随分と小さな家だ。私はガッカリした。母にはこれからこそ、もっと贅沢をして欲しかったのだ。
兄も反対した。というのは既に兄は京都の市内に住んでいて、いずれは母との同居を視野に入れていたのだ。真面目な兄らしく、長男としての務めを果たしたかったのだ。ところが、地元に家を買ってしまえば、同居が出来なくなる。
しかし、地元の家購入を反対する我々に、母は言った。
「お前たちの気持ちは嬉しいけれど、親の好きにさせてくれるのも、親孝行だよ」
その一言で、私たちの気持ちも決まった。母はずっと、地元を離れなかった。〉
“一番最初に送ってくれた1000円に勝る大金はない”
〈母・ふみは、64歳で他界。仕送りを続ける私に、かつて、こう言ってくれたのを覚えている。
「お前がいくら仕送りをくれても、一番最初に送ってくれた1000円に勝る大金はないよ」
母の晩年、気づいた。私が送った仕送りは、全て使わず、貯金してあった。私がいつか金に困った時のために、と言っていた。〉
意外なことに、現役時代の野村氏はリーグ優勝・日本一の場面で泣いたことはないという。人生でただ一度、号泣したのは、ふみさんの葬儀の時だった。荼毘に付される直前、「おっかあ、苦労ばかりの人生だったんじゃないのか?」と言いながら、心の底から号泣したという。