64年東京五輪・ピクトグラム作成メンバーが明かす誕生秘話 「著作権放棄」の英断で世界中に浸透

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トップデザイナーが知恵を絞った「トイレマーク」作成秘話

〈1964年の東京オリンピックの「遺産」には、私たち日本人の生活にとって、普段は意識しないでいるほど浸透したものもある。その代表的な一つが、街のさまざまな場所で見る絵文字「ピクトグラム」だ。情報伝達や注意を喚起する視覚記号で、例えばトイレの男性と女性のマークや、建物内の非常口のマークなどがそうだ。現在では「世界共通言語」ともいえるものだろう。このピクトグラムは外国人の訪問に備えて、組織委員会の「シンボル部会」で開発された。国際大会での使用は世界でも初めてのことだった。そのデザイナーの一人として部会に参加した原田維夫さんは、当時のメンバーの中で最年少だった。日本を代表する版画家である彼の原点が、そこにはあった。〉

 ぼくがオリンピックのシンボル部会に呼ばれたのは、たしか大会の始まる半年ほど前のことだったと記憶しています。

 当時、ぼくはそれまで勤めていた日本デザインセンターを辞め、宇野亜喜良さんと横尾忠則さんと3人で銀座に「イルフィル」というイラストレーションの会社を作ったばかりだったんです。

「イラスト」といえば今でこそ当たり前のものでしょう。でも、あの頃の日本では、まだ広告の世界でもほとんどイラストレーションは取り入れられていなかった。その中で、宇野さんがアメリカの「プッシュピン・スタジオ(同国を代表するイラストレーションのデザイン会社)の日本版を作ろうよ」とぼくらに声をかけたのは、いま思えば当時としてはすごく先進的な試みだった。

 そんななか、大会の部会のディレクターだった美術評論家の勝見勝先生から、宇野さんに参加してほしいと電話があったんです。「原田君と横尾君も呼ばれてるよ」と言われ、「え、俺も!?」という感じで参加したのが、ぼくとオリンピックとの接点でした。

 最初の会議のことは今でも忘れられません。場所は迎賓館赤坂離宮の地下で、戦後は使われていなかった一室でした。円卓に、ビロードを張った豪華な椅子が並べられていて、そこに11人のデザイナーが集まったんです。まァ、豪華な部屋だったのは最初だけで、次の会議からは別の事務室みたいな部屋になったんだけれど(笑)。

 とにかくそのメンバーの顔触れがすごくてね。ぼくの師匠だった田中一光さん、競技のピクトグラムをすでに完成させていた山下芳郎さん……。ぼくが学生の頃から憧れだった大御所たちが、いっせいに集められていた。その輪の中に自分がいるのが嬉しくて、「うわあ、すげえところに呼ばれちゃった」なんて思ったものですよ。

〈シンボル部会での「ピクトグラム」の制作は、会議の初日から始まった。「電話」や「トイレ」「レストラン」といったお題がまずは提示され、それぞれのデザイナーが案を出し合う。頃合いを見て事務方が紙に描かれた案を回収し、次のお題が出される――というやり取りが繰り返された。最終デザインは田中氏と勝見氏によって決定されたようだ。部会が開催されるのは週に2度ほどだった。〉

 最初の会議では、勝見先生からまず次のような挨拶がありました。

「皆さんに集まっていただいたのは、会場でのシンボルを考えてもらうためです。オリンピックには日本語だけではなく、英語が分からない外国人もたくさん来る。だから、ひと目見てその場所が何か分かるようなアイデアを出してほしい」

 この言葉からも分かる通り、「ピクトグラム」という単語もまだ使われていませんでしたね。ぼくらは単に「シンボル」と言っていたわけです。

 そうして初日に出されたお題が「レストラン」だったかな。卓に積まれたわら半紙を持ってきて、各デザイナーがアイデアを描いていくんです。横尾さんなどは特に気合いが入っているから、わら半紙を一度にいっぱい持ってきて次々に描いては提出していました。それがどんどん積み上がっていくんです。会議はだいたい夜の7時くらいから10時まで。1時間くらいすると幕の内弁当が出ました。

 仕事は完全なボランティアでしたが、ぼくはこの会議に行くのがいつも楽しみでね。だって、しばらくするとみんなも慣れてきて、「俺、こんなのできたよ」とか「原田ちゃん、ナニよそれ」と軽口を叩くようになってさ。ぼくはいちばん若いからよくからかわれたけれど、その和気藹々とした雰囲気が本当に面白かった。憧れだった大御所の仕事を間近で見られるし、しかもその彼らと先輩も後輩もなくタメ口で議論ができるのだから、ぼくからしたら夢のような世界だった。

 なので、会議のある日になると、他の仕事なんていいから、という感じですっ飛んで行きましたね。ちょうど大きな仕事の後でお金があったから、銀座の洋服屋でそろえたアイビールックで、生意気にも銀座からタクシーに乗ってさ。青山通りを広げる工事をしていたから、大渋滞の中を30センチ刻みで車線変更するみたいな状態だったのを覚えています。

 そうして向かった赤坂の迎賓館では、ぼくらの他にもオリンピックの準備で部屋が事務所に使われていました。物珍しいから、宇野さんと横尾さんと3人で休み時間に探検もしました。地下の空いている部屋に行くと、見たことのないようなシャンデリアや暖炉が、まだ埃をかぶっている感じなのを見ることができた。特に宇野さんはデコラティブなものが好きだったから、部屋の装飾やデザインに興味津々でしたよ。

〈数カ月間にわたったデザイン作業を経て、彼らは結果的に39種類のピクトグラムを完成させることになる。一つ一つのお題についての議論では、誰もが同じようなアイデアを提案するものもあったが、一方で議論百出の中で悩み抜いたものもあった。「トイレ」のマークもその一つだった。〉

 トイレを誰が見ても分かるシンボルとして表現するのは、メンバー全員が苦戦していましたねェ。

 みんながまず思いつくのは、「とぐろに蠅」みたいなデザインでしたが、それではあんまりでしょ。それで、今度は便器を描いてみるのだけれど、日本の和式の形ではやっぱり伝わらない。「だいたいアフリカの便器はどういうものなんだ?」となって却下されるわけです。

 それで、ぼくはトイプードルが座っている姿と、片足を上げておしっこを飛ばしている様子を描いてみました。これは可愛くてすごくシンボリックだったので、評判もよかった。

 それから小便小僧を誰かが描いたときも、「あ、これいいよ。絶対にこれしかないよ」と盛り上がったのを覚えています。ただ、「じゃあ、女の人はどうするの?」と言われれば、やっぱりこれも難しい……と。

 要するに、男と女があって、大小があるわけです。それをどうシンボルとして表現するか。そこが腕の見せ所だった。

 最終的にデザインを取りまとめたのはぼくの師匠の田中一光さんですが、「男」と、スカートのふくらみのある「女」のあのイラストを見たときは、こんなふうにも表現できるんだ、と唸らされたものでしたね。

五輪の遺産を世界に広めた「著作権放棄」の英断

〈1964年の東京オリンピックの後、吉川英治や司馬遼太郎作品などの挿絵でも知られる版画家となった原田維夫さん。彼が大会の半年前に参加した「シンボル部会」では、39種類のピクトグラム(絵文字)が制作された。今では世界的に使用される視覚記号の誕生には、当時の日本を代表するデザイナーたちの無償の奮闘があった。前出では「トイレ」のピクトグラム作りの苦労を紹介したが、他にも困難を極めたお題があった、と原田さんは言う。〉

「電話」など誰もが同じようなアイデアを出したものもありましたが、なかには本当に難しかったシンボルもありましたね。

 例えば「シャワー」や「サウナ」がそうでした。それらは当時の日本では全く一般的でなく、見たことのない人も多かったからです。ぼくは日本デザインセンターに勤めていたとき、仕事をサボって近くの「東京温泉」によく行っていたので、シャワーもサウナも知っていましたが、おふくろなんかは全く知らなかったと言っていました。

 それでも、その「サウナ」のシンボルを提案するときは、どうしたらいいか悩みに悩みました。というのも、座っている人の後ろに湯気を描いたりすると、なんだか「不動明王」みたいになっちゃう。で、また別のイラストを描いてみたら、今度は人が燃えているような絵になっちゃって……。「うわあ、これじゃ焼身自殺だよ」と。どうしてもシンボリックにならないんですよ。

 でも、さすがだったのが、やはり師匠の田中一光さんですね。人のイラストにタオルを巻いて、湯気を線ではなく点で表現したんです。すると、これはどこから見てもサウナだ、というシンボルが出来上がった。すごいものだな、と思いました。

〈オリンピック後、このときに制作されたピクトグラムが世の中に浸透したのは、部会のメンバーが著作権を放棄したからでもあった、と言われる。その提案を行ったのは、リーダーとして部会を率いた美術評論家の勝見勝氏であった。〉

 あれは部会の最終日のことでした。「ハンコを持ってこい」と言われたので、何も知らずに持って行ったんです。

 正直、最初は「無償と言っていたけれど、やっぱり原稿料がもらえるのかな」とも思いましたね。ところが、その日の会議では勝見先生がみんなの前でこう話された。「今回の仕事については、著作権を放棄してほしい」と。

 1960年代のことですからねェ。「著作権」と聞いても、ほとんどのデザイナーは何のことかよく分からなかったんじゃないかな。ぼくも「先輩たちがサインをするなら、それでいいや」という感じでした。それに、当時は憧れの先輩と同じ書類にサインを書いて、同じようにハンコを押す、っていうだけでぼくは嬉しくてたまらなかったから、嬉々としてハンコを押したのを覚えています。

 もちろん、異議を唱える人は誰もいませんでした。結果的に勝見先生のこの判断によって、ぼくらのかかわったピクトグラムが、大きく世の中に羽ばたいていくことになったんですね。もし一つひとつに著作権を設定すれば、いちいち許可と対価が必要になるので、使用に二の足を踏まれてしまう。それを放棄することで、世に広めてもらおう、というのが勝見先生の考えだったんです。

 オリンピックが終わった後もピクトグラムが広く使われていったことで、ぼくらの仕事は初めてその後の社会とつながった。いわば勝見先生の提案は、部会のメンバーが生み出したデザインを、一般の人たちとつなげようとする試みだった、と今では理解できます。それがどれほど大きなことだったか。勝見先生はこのピクトグラムは社会に浸透していくはずだ、と当時から予見していたのかもしれませんね。

 ただ、一つだけちょっと心残りだったのは、実際にオリンピックの会場でシンボルがどう使われたのかを、全く見ることができなかったことかなァ。

 普通なら施設の見学会くらいやってもよさそうなものだけれど、ぎりぎりの期限で一気に作り上げたものですから、それどころではなかったのでしょう。チケットももらえなかったし、しばらくは「あれはどうなったのかな?」と思っていたくらいでした。

 だから、当時の部会で作ったシンボルが「ピクトグラム」と呼ばれるようになり、世の中で一般化した最初の一歩だったとぼくが実感できたのは、実はほんの10年くらい前のことなんです。デザイン系の専門誌に紹介されたのを人に教えてもらって、初めてまとめて最終デザインを見たんですよ。

〈東京オリンピックという国際大会で初めて使用された後、ピクトグラムは日本だけではなく世界中に広まっていった。それは携帯電話の絵文字やLINEの「スタンプ」など、日本におけるイラストレーション文化の一源流になったともいえるだろう。原田さんはそうした文化が花開いた背景には、日本の「家紋」の伝統などもあったのではないか、と話す。〉

 家紋というのは、戦いの中で敵と味方を区別するものでしょうし、全てが実にシンボリックなデザインですよね。ピクトグラムもそうした文化の流れの中で生まれ、もともと日本に馴染みやすい発想だったのではないか、という話を当時からみんなでしていたものです。

 オリンピックの後、ぼくは版画家として新聞小説や本の挿絵や表紙を描くようになるのだけれど、その仕事にもあのシンボル部会での経験がとても役立ったと感じています。

 例えば、新聞連載小説の挿絵であれば、物語の内容をシンボリックに一枚の絵で提示する必要があるわけです。

 ぱっと新聞を開いたとき、読者の目を挿絵に向かわせるにはどうしたらいいか。アイキャッチャーとしての役割を果たすためには、まさにピクトグラムの発想が活きてくる。その意味で、ぼくは新聞の挿絵や本の表紙を描くとき、その一つ一つをピクトグラムだと思って描いている、といってもいいかもしれません。

 あのシンボル部会に参加した当時、最年少だったぼくは、憧れの先輩たちと一緒に座っているだけでとにかく嬉しかった。目の前の顔ぶれに感動して、「おい、俺がここにいてもいいのかよ」とドキドキしているような若者でした。

 いまから振り返ると、あのときそうした機会を得たことが、どれほど素晴らしいことだったか、と思っています。

 東京オリンピックのあった1960年代は、高度経済成長の発火点ともいえる時期でした。デザインの業界でも、電通や博報堂といった広告代理店以外に次々と新しいデザイン会社が設立され、日本中から優秀な人材が集められていました。いわば、日本におけるデザインのルネサンスのような時代だったわけです。

 みんなが伸び伸びとデザインの仕事をしていて、何かが自分のすぐ傍で始まるという雰囲気が確かにあって……。

 そんななか、東京オリンピックの開催は絶好のタイミングだったのでしょう。何しろ東西の優秀なデザイナーが一カ所に集められ、混沌としていた業界にまさに火が付けられたようなものだったのですから。

 一人としてその場所にいられたことは、今でも自分自身の原点になっていると感じています。

取材・構成=稲泉 連