「瀬古利彦」「野口みずき」らに聞くマラソン低迷の理由 日本の勝機は?

スポーツ

  • ブックマーク

 オリンピックのフィナーレを飾るマラソンで、日本は男女とも長らくメダルから遠ざかっている。一時は世界をリードした日本のマラソンは、いつから、どのように衰退していったのか。そして今回、復活はあるのか。日本の黄金時代を築いた伝説のアスリートたちが語る。「週刊新潮 別冊『奇跡の「東京五輪」再び』」より(内容は7月5日発売時点のもの)

 ***

 かつては世界をリードする勢いがあった「マラソン・ニッポン」。だが、男子は1992年のバルセロナ五輪から、女子は2004年のアテネ五輪からメダルがない。世界の上位はアフリカ勢が占め、男子トップはケニアのキプチョゲの2時間1分39秒、女子もケニアのコスゲイの2時間14分4秒だ。日本では今年2月に鈴木健吾が初の2時間4分台を出したが、3分以上の開きがある。そして女子は野口みずきの2時間19分12秒の日本記録が未だ破られていない。

 長らく低迷が続く日本のマラソン界の“失速”の要因は何なのか。“復活”の日は来るのだろうか。

「マラソン・ニッポン」の幕開けは64年東京五輪だった。円谷幸吉が男子マラソンで戦後初の銅メダルという快挙を成し遂げた。続くメキシコ大会では君原健二が銀メダルを獲得。70年代に入ると、宗茂・猛兄弟、瀬古利彦、80年代には中山竹通ら、スターランナーの出現によって、日本の黄金時代が訪れた。

 その口火を切ったのは宗茂だ。78年2月、別府大分毎日マラソンで2時間9分5秒6の日本新記録をマークした。駅伝、マラソン競技を経て、後進の育成にあたってきた金哲彦氏は往時の活況をこう顧みる。

「日本人初の2時間10分を切り、当時世界歴代2位。あの記録がいかにして生まれたかというと、練習量が凄かったんですよ。九州一周駅伝の10日間に20キロを4本走るとか、週に30~40キロを数回走るようなトレーニングをこなしていた。宗さんが記録の扉を開け、瀬古さん、中山さんらトップ選手が切磋琢磨し、チャレンジしていったのです」

 瀬古は83年東京国際で2時間8分38秒と日本記録を更新。84年ロサンゼルス五輪には瀬古と宗兄弟が出場し、弟の猛が4位に入賞した。次のソウルは中山竹通が4位。そして92年バルセロナで宗兄弟に指導を受けた森下広一がついに銀メダルを獲得する(中山はまたしても4位)。しかし、そこから男子マラソンは下り坂へ至る。

「先人があまりに強すぎたんですね。次の世代はとても敵わないとモチベーションも湧かなかったんじゃないかと思う。練習をこなせず、故障する選手も多かった。アトランタ、シドニーはぼろぼろでしたから」(同)

 犬伏孝行、藤田敦史、高岡寿成と2時間6分台を更新したが、勝負強さにはつながらない。一方、ケニア、エチオピアの選手が次々と台頭。それも日本の実業団で育った選手が自国へ戻って、メダルを獲っていく。世界的に賞金レースがシリーズ化され、マラソンで稼げる時代になったことで、トラック競技のトップ選手たちが挑むようになったのだ。

「2時間6分、7分台だった世界の記録がどんどん速くなり、4分、3分、2分、1分と上がっていく。日本の選手はますます勝てなくなっていきました」(同)

女子の絶頂期

 一方、女子を見てみると、マラソンがオリンピックの正式種目になったのは84年ロサンゼルス大会から。東京国際で日本人初優勝の佐々木七恵と、当時の日本最高記録を持つ増田明美が出場し、佐々木は19位、増田は途中棄権に終わった。続くソウルでも日本勢は完敗するが、90年代に入ると、女子も黄金時代を迎えた。

 スポーツジャーナリストの増田明美さんは女子が強くなった要因をこう語る。

「小出義雄監督という名伯楽の存在が大きいですね。私の時代は記録を伸ばすため減量を徹底し、貧血や疲労骨折に悩まされました。小出監督は食べて走ることが大事と考え、教え子の有森裕子さん、高橋尚子さんたちがよく食べて走ってメダルを獲った。私たちの失敗を糧にして独自の指導を確立されたのでしょう」

 小出監督は自らの指導法を「でたらめ理論」といい、女子にも“非常識”といわれるような男子並みのハードな練習量を課した。

 その一方で90年代にはスポーツ科学が取り入れられる。マラソンに導入されたのが高地トレーニングだ。

「1600メートル以上の高地でトレーニングすると、心肺機能が高まります。男子はスピードで追い込みすぎるから筋肉が疲弊して失敗も多いけれど、ゆっくり長く走り込む女子の練習には合うのです」(同)

 92年バルセロナで銀メダル、次のアトランタで銅メダルを獲得した有森裕子さんは、当時をこう振り返る。

「海外での高地合宿がスタートし、女子マラソンを取り巻く環境が進化していく時期でした。そこで世界を狙う女子の育成に情熱を注ぐ小出監督と出会い、オリンピックを目指す夢が合致した。練習も手探りだったのでお互いぶつかり、うまくいかない時期もあったけれど、全力で集中したことが結果につながったと思います」

 有森さんは学生時代に目立つ実績がなく、自ら門を叩いて実業団のリクルートへ。マラソンの自己ベストは当時の日本歴代10傑にも入らない。それでも2個のメダルを獲った強さは、精神力ゆえだ。

「実業団で走ることは“プロ”ということです。お金をもらって競技しているのだから、結果を出さなければいけない。私にとって走ることは仕事、生きるための手段でした」(同)

 00年シドニーでは高橋尚子が2時間23分14秒の五輪新記録でついに金メダル獲得。「すごく楽しい42キロでした」と語る笑顔が鮮烈だった。翌年ベルリンマラソンでは2時間19分46秒で女子初の20分切りを達成、当時世界歴代1位に躍り出た。

 04年アテネは30度を超す酷暑のレースとなるが、世界記録保持者ラドクリフ、ケニアのヌデレバらを制し、野口みずきが優勝する。

「走行距離が支えてくれたと思います。監督とコーチの緻密なスケジュールのもと、暑い場所でなく涼しい高地でトレーニングしたので内臓疲労を起こさず、距離をこなせた。スタートラインに立った時は、このメンバーの中でも世界で一番強い練習をしてきたと自信を持てました」(野口さん)

 翌年は記録を狙い、ベルリンマラソンを目指す。自分との闘いに打ち勝つ精神も鍛えようと、野口さんは練習パートナーをつけず、スイスで一人走り込んだ。

「精神的にもきつくなって、“プチ家出”をしました。ホテルの裏山にひっそり隠れて数時間……でもお腹が空いて戻ったら、ホテルの前でコーチが心配そうに待っていた。『すいません』と言いながらも、そのあと胸に溜めた辛さを話せたことで、気持ちを切り替えられました」(野口さん)

 そのベルリンでは2時間19分12秒という日本最高記録を達成。当時、国内では千葉真子、渋井陽子、土佐礼子、坂本直子ら強豪が競い合っていた。しかし、女子マラソンもその後、五輪のメダルから遠のいていく。

「2000年代に入り、女子もアフリカ勢の層が厚くなっていきます。彼女たちは大会で出場料や賞金を狙い、職業としてマラソン競技をしている。だからこの時代にメダルを獲るのは本当に大変なのです」(増田さん)

次ページ:アフリカ勢には勝てない

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。