「英語の試験で20点以上とったことがない」野球少年がアメリカの大学院で「考古学者」になれたワケ

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 沈没船をはじめ、水中に沈んださまざまな遺跡を研究し、水に関わる人類の歴史をひもとく――それが水中考古学だ。

 まだまだマイナーで、日本人研究者も少ないこの学問で、世界を舞台に活躍するのが山舩晃太郎氏だ。小学生時代からプロ野球選手を目指し、「英語なんて使わないから勉強する意味ない」と豪語していた彼が、どうしてアメリカで水中考古学を学ぶことを決意したのか。初著書『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』から一部抜粋・編集してお届けする。

将来はプロ野球選手

 私は1984年、秋田県で生まれた。小学3年生の頃、父が転勤族だったため当時住んでいた名古屋市で、両親は私を少年野球チームに入れた。これが野球との出会いだった。中学生で千葉県市川市に引っ越したが、「将来はプロ野球選手になれる」と信じ、ひたすら野球に打ち込み、法政大学第一高等学校にスポーツ推薦で入学した。

 その高校時代、大きな挫折を味わう。2年生の春に右肘をけがしてしまったのだ。夏休みに手術を受け、再び球を投げられるようになったのは、3年生に上がった後だった。

 小さい頃から甲子園を目指し野球を続けていたが、結局夏の予選のベンチに入ることもできずに終わる。当時は全てが嫌になるほど絶望した。

 でもそのままでは野球を辞めることができなかった。付属校で大学受験の無かった私は、リハビリと練習を続け、大学野球の名門の法政大学でも野球を続けることにした。

 しかし、大学野球部のレベルは想像以上だった。私は無茶な練習でいろんな箇所に痛みを抱え、目立った成長もない。万年バッティングピッチャーだった。

 3年生の初め、野球推薦の新入生が自分の横で150km近い球を軽々と投げているのを見た時に、どんなにもがいても敵わない世界があると思い知らされた。

 この時、私は小さい頃から憧れていたプロ野球選手になる夢は実現せずに「夢」で終わるのだと知った。

水中考古学との出会い

 卒業論文のテーマを決めるため、大学の図書館に通っていたある日、運命の一冊と出会う。

 アメリカのジャーナリスト・写真家のロバート・F・バージェスが書いた『海底の1万2000年―水中考古学物語』(1991年、心交社)だ。

 そこに「フロリダにある『ウォーム・ミネラル・スプリングス』という鉱泉から1万年前の人間の頭蓋骨と脳が発見された。この鉱泉の水底には酸素が存在せず、水温もほぼ一定だという。有機物の保存に絶好の環境で、腐敗がほとんど起こらず保存されていたのだ」と書かれていたのを読み、衝撃が走った。そんなことがあるのか!

 すぐにさまざまな図書館から水中考古学関連の学術書を取り寄せ、夢中になって読み漁った。

 日本語で出版されている書物を読み終えた後は、英語の本もできるだけ取り寄せ、文章はさっぱり分からないが、そこに載っている写真だけを眺める日々が数カ月続いた。地中海やカリブ海をはじめ、世界中の美しい海の中で撮られた水中遺跡や発掘の様子を捉えた写真。気づいた時にはもう夢中だった。

 ある時、写真には必ずと言っていいほど、「テキサスA&M大学」のクレジットがあることに気づいた。世界中で発掘する精鋭集団。こんな人たちもいるのだなぁ、すごいなぁ、と写真を眺めていた。

 そんな中で井上たかひこさんの『水中考古学への招待 海底からのメッセージ』(1998年、成山堂書店)という本を見つけた。読んでみて驚いた。井上さんは、40歳を過ぎてから脱サラし、あのテキサスA&M大学に留学、英語は苦手だったが大学院で修士号を修めたと書いてあった。私は英語が苦手どころか、中学・高校時代、英語の試験で20点以上を取ったことがなかった。それでも井上さんの本を読み、アメリカへの留学が全くの夢物語ではないと知った。

 法政大学の硬式野球部は、練習に参加できなければ退部しなければならない。しかし4年生になれば、プロ野球か、社会人野球を目指す選手以外は就職活動のために練習に出ないでもよいという規則がある。私も3年生の終わりまではバッティングピッチャーとして野球に専念し、4年生になり、監督に相談して練習を休ませてもらうことになった。こうして、13年間の野球選手としての人生が、事実上終わった。

とにかく留学しよう!

 この頃には、自分の中での新たな将来の進路は決まっていた。

「アメリカで水中考古学を学んでみたい!」

 行きたい大学も決まっている。テキサスA&M大学だ。

 両親にそう伝えた時は二人とも驚いた。というよりも、私の口から出た言葉の意図が理解できないようだった。

 確かにこの時の私の英語力は皆無だったし、考古学の知識も大学の授業でいくつか受けていた程度であった。身の程知らずも甚だしい。ただ二人ともすぐに賛成してくれた。

 今、私が当時の自分と同じ状態の大学生から相談を受けたら、「考え直せ!」と言うだろう。まずは、日本でしっかりと英語と考古学の基礎知識を固め準備をするのが王道である。

 何はともあれまずは英語を話せるようにならなければ、スタートラインには立てない。

 テキサスA&M大学には留学生用の語学学校が併設されており、希望すれば外部からも入学できる制度になっていた。

 せっかく英語を学ぶのであったら、この語学学校に通って、憧れの大学院を見てみたい、同じ空気を吸ってみたい!

 そう考えた私は、英語が得意な友人にアメリカの語学学校への申し込み作業を手伝ってもらい、学生ビザを受け取ることができた。

 大学を卒業して、アルバイトをしながら数カ月過ごし、スーツケース一つに夢を詰め込み、両親に見送られてテキサスに旅立った。

いざアメリカへ

「テキサスA&M大学」のA&MとはAgricultural and Mechanicalの略称で、日本風に言えば「テキサス農工大」である。

 真夏で気温が40度にもなる灼熱の中、キャンパス内に併設された語学学校のオフィスを見つけ出した。クーラーの効いた室内に入ると、受付のアメリカ人女性が話しかけてくる。私には彼女が何を言っているのかが、さっぱり分からなかった。

 しかし運がいいことにその日、少し日本語の話せる韓国人の男性が入学の手続きにやってきていた。彼の通訳によって、ようやく私に住む場所がないこと、知り合いが誰もいないことが彼女たちに伝わった。後から聞いた話によると、私のように住む所さえ決めずに渡米してくる学生は前代未聞だと、職員内で笑いの種になったそうだ。

到着初日にマクドナルドで心が折れる

 何もできない私の代わりに、語学学校の受付の女性が入学の手続きやアパートの手続きをしてくれた。しかし入居できるのは、授業が始まるのと同じく1週間後。それまでは、語学学校の先生が手配してくれた大学近くの安いモーテルに滞在することになった。

 モーテルに着いた頃には夜の6時を過ぎていた。前日からほとんど何も口にしていなかった私は、考えられないほど空腹だった。

 歩いて行ける距離にマクドナルドがあり、そこで食べることにした。店内は夕食時でとても混雑している。私が注文する番になり、体格の良い女性店員に何か尋ねられたが、彼女が何を言っているかは全然理解できない。

 実は、アメリカのマクドナルドではハンバーガー単品のことを「サンドウィッチ」、セットメニューのことを「ミール」という。そんなことは全く知らない私は「バーガーセットプリーズ」と完全な日本人発音の英語で懇願していたのである。

 徐々に店員の女性のいら立ちが顔に見え始め、繁盛している店内で私の後ろの注文待ちの列は、みるみる長くなっていった。

 私の心は、完全に折れてしまった。

 恥ずかしさと申し訳なさで、何も注文することなく店を飛び出す。その後、気を取り直して、近くにあったスーパーに行って軽食を買おうとした。ただアメリカのスーパーではレジ係が「Did you find everything, Okay?」などと、必ず気さくに話しかけてくれるのだ。私は「ハウアーユー?」と話しかけられたら「アイムファイン! サンキュー」と返す一連の流れしか英語の挨拶を知らなかった。

 レジで店員さんに話しかけられた私は、怖くなって何も買わずにまたしても逃げ出してしまった。

 語学学校の授業の始まるまでの1週間、モーテルの受付の横にあった小さなスナックとジュースの自動販売機だけで命を繋ぐことになった。部屋と自動販売機を行き来しながら「なんで自分は、こんな所に何も考えずに来てしまったのか?」と、情けなさと後悔で泣きながら過ごした。

絶望の授業初日

 留学半年後に力試しで受けたTOEFLの読解で1点しか取れない……とあまりにおそまつな英語力だった私だが、深夜3時まで図書館で勉強する毎日を送り、2008年、なんとか大学院にNon-Degree Seekingという制度で仮入学することができた。大学院の授業一つと、大学4年生のクラス二つの全てでB(80点)以上の成績を1年間で残せば、正式な入学が許される。逆に成績が達しなかったら入学をあきらめ、帰国しなければならないというものだった。

 何にせよ、あのテキサスA&M大学の船舶考古学プログラムで勉強をすることができる! 私は天にも昇る気分だった。このためにテキサスまでやってきて、毎日英語を勉強したのだ!

 受講することになったのは、古代から中世中期までのヨーロッパの造船の歴史を学ぶ「船舶考古学概論」のクラスだった。私以外の学生は10人、全員がアメリカ人だ。

 船舶考古学プログラムの教授が教室に入ってきて、75分間の授業が始まった。最初の数分で、私の希望は絶望に変わった。

 教授が発する単語が、何1つ理解できない。

 パワーポイントに映した写真や図について、教授はひたすら説明をしていく。それを必死にノートに取るアメリカ人の大学院生たち。時に彼らは手を挙げ質問をし、教授が真剣な顔で更なる説明を加えていく。

 しかし私には、彼らの話している英語と授業内容が全く理解できなかった。理解率0%である。血の気がスーーーーーッと引いていった。

 しっかりと考えれば分かるが、私はたった2年間英語を勉強しただけだったのである(中学校から大学まで何をしていたのかは聞かないでほしい)。日常生活の英語はそれなりにこなせるようになり、ある程度テレビ番組などの内容も頭に入るようになっていた。ただ現実にはテキサスA&M大学の大学院の船舶考古学プログラムは、世界屈指の専門的な内容だ。高度な用語がバンバン飛び交うが、もちろん外国人の私のためにゆっくりと話してくれるわけでも、参考用の資料が配られるわけでもなかった。

 私はパニック状態となった。

「どうしよう! どうしよう! どうしよう! どうしよう!」

 理解できるのは、映し出されている写真や図だけだった。

 文字や教授の話す内容を理解するのは諦め、1分毎ぐらいに変わるスクリーンの情報を必死にノートに書き写した。授業が終わると船舶考古学プログラムに併設されている小さな図書室に走り込んで、数十分前に書きなぐったスケッチと同じ写真や図のある本を探し出し、その図のことを説明しているページを、電子辞書を使いながら少しずつ読む。2回目の授業からは教授に許可を取って授業内容を録音し、とにかく、それを毎回続けた。75分のクラスの内容ノートをまとめるのに、毎回15~20時間はかかったのを覚えている。

 しかしもうやるしかなかった。毎週3日のペースで徹夜して勉強することとなった。

 猛勉強の甲斐もあり、仮入学の1年間の2セメスターの授業でギリギリ平均B以上を取ることができ、2009年、正式に船舶考古学プログラムに修士課程の大学院生として入学することができた。これで、ようやく「水中考古学者になる」という目標のスタートラインに立てたのである。

デイリー新潮編集部

2021年8月6日掲載

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