元海上保安官「尖閣諸島に行政標識を」 石垣市長は設置を決断するも政府は及び腰

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 沖縄県の石垣市が「宝」と誇る尖閣諸島が日本の領土に編入されて126年。昨年に五つの島の字名(あざめい)を変更した市は、新たな行政標識を準備中だ。島周辺の海で中国が無法を続ける中、元海上保安官の安田喜禮氏は「いまこそ設置すべきです。しかし国が……」と訴える。

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 私が海上保安庁に奉職したのは31年間。退職してから20年近くが過ぎました。半世紀以上にわたって沖縄の海を見守ってきましたが、いまほど尖閣諸島と周辺の海の安全が脅かされている事態は初めてです。あの島々は日本固有の領土であり、私が暮らす石垣市の一部であることに疑いの余地はありません。市と政府は中国の圧力に屈することなく、毅然とした態度で島々に新たな行政標識を設置するべきだと思います。

〈昨年6月、沖縄県の石垣市議会は沖縄本島から西に225海里(410キロ)、石垣島の北西90海里(170キロ)に位置する五つの島の住所地の字名を「登野城(とのしろ)」から「登野城尖閣」に変更する議案を賛成多数で可決した。

 尖閣諸島とは、魚釣島、北小島、南小島、久場島、大正島のほか、沖ノ北岩、沖ノ南岩、飛瀬などからなる複数の島々の総称だ。

 5島には同年10月1日から地名を変更する決議の効力が生じたため、石垣市にはそれぞれの地名と地番を示す標識を設置する行政上の義務が生まれている。ちなみに魚釣島の地番は登野城尖閣2392で、北小島は登野城尖閣2391、南小島は登野城尖閣2390、久場島が登野城尖閣2393で、大正島は登野城尖閣2394となる。〉

 現在、島にある行政標識は、昭和44年(1969年)に当時の石垣喜興(きこう)市長(故人)が自ら足を運んで設置したものです。あれから52年が経ち、島々を巡る日本の安全保障環境は大きく様変わりしました。その最たる例は、改めて言うまでもなく、中国による力を背景にした現状変更を企図した試みです。

〈尖閣諸島とその周辺の海域では、いまも中国海警局の複数の船が領海への侵入を繰り返しているほか、領海内や接続水域で日本の漁船を追尾するなどの挑発行為を続けている。この海域で中国当局の船が確認されるのは155日連続(7月17日現在)で、いまや完全に常態化している。〉

手続きは粛々と

 行政標識の設置を訴える理由は、私を含めた島民の故郷を守りたいからです。字名が変更されたのなら、その手続きは粛々と進めればよく、どんな国にも気兼ねする必要はありません。石垣市民の一人として、日本人として当たり前のことを言っているに過ぎません。ところが、どうも最近は雲行きが怪しい。政府が東シナ海で中国との間に波風を立たせることを嫌がって、市の動きに否定的な姿勢を示しているようなのです。

〈一体、何が起きているのか。海上保安官として半生を海の安全に捧げてきた安田氏の主張は、さまざまな経験と豊富な知見に裏打ちされている。その言に耳を傾ける前に、日本が尖閣諸島を領有するに至った歴史的経緯と、その正当性を整理しておきたい。

 日本政府が沖縄県に尖閣諸島の調査を命じたのは、いまから136年前の明治18年(1885年)のこと。それを受けて、県は魚釣島などの植物や生息する鳥類に関する報告書を提出したとされている。以降、政府はすべての島が無人島であることや、他国の支配が及んでいないことを確認する作業を進めていった。

 6年後の明治24年(1891年)になると、石垣市が尖閣諸島を八重山警察署の仮所轄として編入。さらに4年後の(明治28年/1895年)1月14日には、伊藤博文内閣が尖閣諸島を日本の領土に編入することを閣議決定し、全島は正式に沖縄県の所轄になった。

 福岡県出身の実業家で、後に尖閣諸島の地権者となる古賀辰四郎が沖縄県から島の開拓許可を取得したのはこの時期で、魚釣島を中心にアホウドリの羽毛の採取や鰹節(かつおぶし)の製造に従事したと伝えられている。

 昭和15年(1940年)に古賀の長男・善次が事業を中止して島を離れるまで、“古賀村”と呼ばれた魚釣島と久場島の集落には常に100人以上の島民が住まい、最盛期には284人が起居していた。

 明治35年(1902年)には尖閣諸島が「八重山郡大浜間切登野城村」として編入され、各島の地番が確定された。

 折しも日清戦争を経て、中国大陸は欧米列強による分割が進んだ時期。この年には、極東地域への進出を目論むロシア帝国の動きを警戒した日本とイギリスが「日英同盟」を締結している。

 世界が歴史のうねりに翻弄された時代だったとはいえ、この間に中国や台湾が尖閣諸島を自国の領土だと主張したり、日本の領有に異を唱えたことは一度たりとてない。彼らが領有を主張し始めるのは、後述するように昭和の時代に入ってからのことである。〉

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