米子松蔭はセーフ…高校最後の夏が消えた…「夏の甲子園」波紋を呼んだ“出場辞退”三大事件

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 夏の甲子園出場をかけた地方予選もたけなわだが、部員の新型コロナウイルス感染などを理由に、出場辞退するチームも相次いでいる。春の鳥取県大会を制し、優勝候補だった米子松蔭も、部員に感染者が確認されていないにもかかわらず、出場辞退に追い込まれた。だが、元大阪市長の橋下徹氏や国際政治学者の三浦瑠麗氏、作家の乙武洋匡氏ら著名人が、高校野球連盟の対応に疑問を投げかける一方、救済を求めるオンライン上の署名活動も実施されるなど、大きな波紋を呼んだ結果、7月19日、幸いにも一転出場が認められた。

監督がエースを平手打ち

 過去にも大会中に出場辞退に泣いたチームは少なからずあった。これらのチームは、どのような理由で不戦敗という残念な結果に至ったのか、3つの出場辞退事件を振り返ってみよう。

 試合中に監督が選手を平手打ちするシーンがテレビ放映されたことがきっかけで、出場辞退に追い込まれたのが、1980年の東海大相模だ。

 秋、春と2季連続で全国屈指の激戦区・神奈川を制した東海大相模は、愛甲猛(元ロッテなど)の横浜、宮城弘明(元ヤクルト)の横浜商とともに夏も優勝候補に挙げられ、「全国制覇を狙える」と言われていた。

 そして迎えた夏の県大会、初戦で横須賀商を8対2で下し、3年ぶりの甲子園に向けて一歩を踏み出した東海大相模は、3回戦で三浦と対戦した。

 だが、先発したエースが1回に2四球、2回にも3四球を与え、ピリッとしない。大会初先発の緊張から地に足が着いていないとみた田倉雅雄監督は、「目を覚ます意味で」ベンチに引き揚げてきたエースを平手打ちした。今なら暴力行為として問題になるところだが、当時の高校野球では、さほど珍しくない“愛のムチ”だった。その後、エースは3回以降立ち直り、試合も10対0と完勝した。

 ところが、平手打ちのシーンが、試合を中継していた地元テレビに映しだされたことから、抗議が殺到してしまう。2日後、東海大相模は出場辞退し、4回戦の鶴嶺戦は不戦敗となった。

 今なら監督を謹慎させて、チームの出場を認める柔軟な対応も考えられるが、“連帯責任”が当たり前だった時代は、選手たちから甲子園のチャンスまで奪ってしまった。

 出場辞退が決まったあと、選手たちから慕われていた田倉監督は、グラウンドで胴上げされたという。以後、東海大相模はライバル校の後塵を拝し、30年の長きにわたって夏の甲子園から遠ざかることになる。

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