“天井サーブ”を生んだ「猫田勝敏」 ミュンヘンの奇跡を生んだ、タクシー運転手の一言(小林信也)

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五輪前年に骨折

 期待通りエースセッターに成長した猫田は、68年メキシコ五輪でチームを銀メダルに導いた。残るは金メダルしかない。

「勝ったらアタッカーの手柄。負けたらセッターの責任」、猫田は割に合わない役柄を好んで受け入れた。自分は目立たなくていい。南将之、大古誠司、森田淳悟、横田忠義らに打ちやすいトスを上げる。多彩なクイック、時間差攻撃は日本の武器になった。さらに森田は“一人時間差”も完成させた。すべては猫田のトスがあってこそだ。

 ところが、猫田は五輪前年の9月、ゲーム中にフェイントを拾おうとして他の2選手と衝突、右腕を複雑骨折してしまう。懸命のリハビリを経て、試合に復帰したのは五輪開幕の2カ月前だった。筋力が落ちた上に、右腕が後ろに反り返らない。顔の前でトスを上げる動作はできても、バックトスに支障が出る。そこで猫田は、これを逆手に取って新たな武器とした。ネットに背を向けてトスを上げる。するとその瞬間が見えないため、相手の対応が遅れる。

 松平監督はやむをえず、ミュンヘン五輪を若いセッター嶋岡健治との併用で戦った。大勝負は優勝決定戦(対東ドイツ戦)のひとつ前、準決勝のブルガリア戦だった。2セットを奪われ、2セット奪い返して第5セットに入った。3対9でリードを許す。絶体絶命の場面で猫田が投入された。猫田はトスの巧さでブルガリアを翻弄、3連続得点を奪う。さらに勢いに乗った日本は15対12で大逆転を演じた。その劇的勝利は、“ミュンヘンの奇跡”と呼ばれている。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2021年7月8日号掲載

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