総理のスピーチライターが明かす安倍外交の舞台裏――谷口智彦(慶應義塾大学大学院教授)【佐藤優の頂上対決】

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 国際社会のパワーバランスが変わる中、経済的影響力が低下した日本は、その立場をきちんと伝える「明確な言葉」は必要となった。安倍前政権は、自由、民主主義、法の支配などの価値観で連携する「価値観外交」を掲げたが、それを支えたのは、歴代初となる総理専属スピーチライターの存在だった。

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佐藤 昨年、文庫化もされた『誰も書かなかった安倍晋三』(飛鳥新社)を出されるまで、谷口さんは知る人ぞ知る存在でした。安倍政権では総理のスピーチライターを務めておられましたね。

谷口 はい。ただし私が書いたのは、外交に関する演説だけです。所信表明演説や施政方針演説はじめ数多くある国内向けのものは、筆力のある秘書官が担当していました。

佐藤 2015年4月のアメリカの連邦議会上下両院合同会議でのスピーチが有名です。

谷口 祖父の岸信介の話から始めて、日米両国を自由、民主主義、法の支配といった価値観を共有する国と位置づけ、日米同盟を「希望の同盟」として、未来へのベクトルで書き換えた非常に重要な演説になりました。

佐藤 長い演説で、しかも安倍総理は英語でスピーチしましたね。

谷口 40分という長尺でした。それまで英語の演説は長くて20分ほどでしたから、倍です。総理は、寝る前に寝室で、昭恵夫人を相手に何度も繰り返し練習されたようです。

佐藤 谷口さんが英語で行う気持ちにさせ、かつ発音の指南もされたと聞きました。

谷口 いきさつを言いますと、英語が達者なドイツのメルケル首相が米連邦議会で演説した際は、ドイツ語でした。ですから総理に「どうなさいますか。日本語でもいいみたいです」と申し上げたところ、「あ、英語でやろう」と、間髪をいれずおっしゃった。ご本人は、最初から意欲をみなぎらせていたんです。読み上げに関しては私がカセットテープに吹き込んだもので練習されていましたから、少しはお役に立てたかもしれませんが。

佐藤 総理専属のスピーチライターは谷口さんが初めてですね。

谷口 第2次安倍政権まで、「専業」としてスピーチライターの役目を果たす人はいませんでした。演説などで頑張らなくても、内外環境が固定的だったので、長いこと、それで何とかなったということじゃないでしょうか。国内外で日本の考えを主張しなくても、すんでいたんですね。

佐藤 そもそも日本は言葉にしなくてもわかり合えるという社会でしたから。

谷口 「以心伝心」ですね。「剛毅朴訥仁に近し」といって、口下手な方が、むしろ好まれたり。でもアメリカでは、人口数千人程度の町にもスピーチライターの看板をあげている人が何人かいるほどで、専門職として確立しています。ましてホワイトハウスとなると、大統領直属でメインの書き手が複数いて、その下に数人がサブとして付く陣立てです。

佐藤 そこから強く印象に残る演説が生み出されてくる。

谷口 有名なところでは、ジョン・F・ケネディ大統領のスピーチライターを務めたテッド・ソレンセンという人がいます。就任演説の「国家が諸君に何をしてやれるかを問うなかれ、諸君が国家に対して何をなせるかを問うべし」や、テキサス遊説の際、「10年以内に我々は月に行く」とケネディ大統領が言った、ああいうものを一手に書いた人でした。

佐藤 ソ連のブレジネフ書記長にもイグナチェンコというスピーチライターがいて、泣かせる演説を書いていました。彼はその後、タス通信社の社長になり、ゴルバチョフ、エリツィン大統領の時代には、報道官として政権を支えました。

谷口 その人も同じだと思いますが、首脳の演説は、あくまでそれを語って人々に呼びかける総理や大統領のものです。誰が書いたかなんか、どうだっていい。ケネディの演説は、徹頭徹尾ケネディの演説です。私も、「自分の」ものだなどと、かりそめにも思ったことはありません。そもそも総理のスピーチは政策を語るものですから、ひとりで作れるものじゃない。作成段階で、政策実施当局と綿密に擦り合わせをします。

佐藤 スピーチを書くには、それをする人についてもよく知らなければなりません。政治家が考えていること、まだ言語化できていないことを言葉にしていかなければならない。

谷口 自分の仕事は、安倍晋三という人物を観察することなんだと思い定めました。ほぼ毎日官邸に通い、外遊に同行したのはそのためです。でも、わかったぞという手応えが早く欲しくて、当初は総理といつも一緒にいる秘書官たちが羨ましかったですね。移動する車中でも、総理と話ができますから。ま、安倍晋三という人はおよそ表裏がない人ですし、しばらく観察するうち安心できるようになりました。何に義憤を感じるか、真善美の尺度は何かが見えてきて、しかもそこに何ら違和感がないぞと思った時、ちょっと自信ができました。

佐藤 一種の運命共同体になるわけですね。

谷口 その人の発想、歴史観、女性観や友人づきあいなどについて十分理解し、あえて言いますが、心酔しているくらいじゃないと書けないですね。

19回の書き直し

佐藤 スピーチを書く時間は、どのくらい与えられるのですか。

谷口 標準的には1カ月です。総理に見せる前に、政策を実行する担当省庁、私の場合多くは外務省との間で原稿を固めます。それが何往復もし、けっこうな時間をとられます。

佐藤 外務省内のあちこちと相議(あいぎ)し、内容や状況によっては他省庁とも協議しますからね。

谷口 カネの話が出ると財務省とか、関わる役所が増えますとね……。

佐藤 時間がかかるだけではなく、いろんな留保をつけたり言葉を直したりして、ぐちゃぐちゃの文書になってくる。

谷口 戻ってきた文章が「の」「の」「の」と、同じ助詞を平気で続けていたりすると、深夜に一人でキレていました。主張の中身は容れますが、総理が読む日本語ですから妥協はできません。例えば私は、「れる」「られる」の受身形は全滅させました。

佐藤 そのやりとりも含めて1カ月ですか。

谷口 その後に、総理をいつも見ている秘書官たちのダメ出しがあって、これがなかなか胃が痛くなる。総理に仕掛かり品をお見せするわけにいきませんから、当然です。最後に総理に見せますが、安倍総理のデスクワーク(原稿直し)がまた、的確で。私は、まるで駆け出し記者の心境でした。ですから書き直しに次ぐ書き直しが、私の本業でした。

佐藤 先ほどの米国上下両院合同会議演説は40分ですから、大変でしたでしょう。

谷口 あのスピーチは外務省が自由放任にしてくれて、最初から最後まで、総理に私、一、二の秘書官とで固めていきました。総理からは、記憶によれば19回ダメ出しがありました。それが何を意味するかといえば、19回徹夜することなんです。

佐藤 2、3日、時間をくれるというわけではない。

谷口 お相手は、本邦随一の多忙な方ですからね。そんな事情で、諸外国で首脳のスピーチを書く人は、まだ成人病には早い40歳前後が大半です。もしかして自分は最高齢かもと思いつつ、徹夜徹夜を、まあ喜んでやりました。時々は2本、3本同時に作ったり。寝ないでも書けるというのが、この商売には欠かせないんです。書いている最中はアドレナリンが噴出するので、意外とできます。

佐藤 谷口さんがお書きになったスピーチの中で、もっとも強く記憶に残っている3本というと、どれになりますか。

谷口 安倍総理が勝負をかけて、歴史を動かそうとしたものですね。気迫のこもり方でいうと、一にも二にも米国上下両院合同会議の演説です。それに先立つオーストラリア国会両院総会での14年7月の演説も英語で話された。ご当地訛りまで入れて、大変な力の入れようでした。

佐藤 安倍総理の英語力はけっこう高いんですよね。

谷口 米国議会で本格的な演説をした首相は、安倍総理の前には、岸信介がいただけでした。よく似た因縁は、オーストラリアにもあったんです。戦後、日本から初めて訪豪した首相が、岸です(1957年)。そのとき結んだ通商協定が、戦後日本の成長を支えます。鉄鉱石、粘結炭、天然ガスと、オーストラリアから来た資源なくしては、鉄鋼業も総合商社もあんなに伸びていません。

佐藤 高度成長の基礎となったのですね。

谷口 戦後、わずか12年のことで、ありがたかった。だから安倍総理は、日本軍の捕虜となった人たちに強いわだかまりが残った事実を踏まえながらも、いまさらゴメンナサイでもありませんから、「よくも恩讐を越えて、私たちに寛容な気持ちで接してくれましたね」と、深く感謝したんです。静かにこうべを垂れ、かつて戦った相手が示した寛容に感謝をささげることが、あれ以来、安倍総理の心情となり、論理になりました。

佐藤 そこで一つの型ができた。

谷口 もう一つは、「二つの海の交わり」という演説です。07年8月にインドを訪問したとき、上下両院議会で話されたものです。

佐藤 こちらは第1次安倍政権時代ですね。

谷口 はい。あの時、安倍総理は絶不調で、お粥すら喉を通らず、点滴を打ったと聞いています。そんな中、演説は大絶賛を博しました。「二つの海」というのは、インド洋と太平洋のことで、両洋のつながりを、日本とインドという、アジアを東西で支える民主主義国で支えていきましょう、と。「アジア太平洋」に替わって、「インド太平洋」という、新しい地政学のコンセプトが生まれた瞬間です。

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