「卵ひとつ」で東京五輪代表を逃した男 レスリングにおける階級変更の難しさ

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きつかった減量 連続五輪ならず

 一方、敗れた樋口は終了のブザーとともにマットに突っ伏し、しばらく立ち上がれなかった。リモート会見では「時間を犠牲にして僕をサポートしてくれたコーチや監督、友人などがいてレスリングをすることができていたので、周囲の期待に応えられなくて申し訳ない気持ちでいっぱいです。何が一歩及ばなかったのかわからないが、攻めるレスリングはできたんじゃないかと思う」と話した。

 アジア予選では、あと50グラムが落とせずに手中にしかけた「連続五輪切符」を逃した。とはいえ、伏線がある。樋口はリオ五輪の57キロ級で出場したが、減量苦でその後65キロ級に転じた。2019年6月の全日本選手権では、前年に65キロ級で世界チャンピオンになっていた乙黒拓斗(山梨学院大)に圧勝した。しかし翌月に行われた、この年秋の世界選手権の代表争いのプレーオフでは、乙黒に敗れた。乙黒には勢いがあり「このままでは東京五輪代表は難しい」と考えた樋口は再び57キロ級まで落とすことを余儀なくされていた。

 50グラムといえば卵一つ分くらい。「そのくらい落とせないのか」と思ってしまうが、贅肉が極端に少ない男子の軽量級選手の体では、わずかな減量も極めて難しい。樋口黎についてあるレスリング関係者は「減量はきつかったようでプレーオフの前も、これで戦えるのかと思われるほど、つらそうな感じだったと周囲が話していた」と語っていた。
 引退した吉田沙保里は太ったりもやせたりもしない体質だが、ぴったりとそこに53キロ級の五輪階級があった。減量苦はなかった。62キロ級でリオ五輪を制した川井梨紗子(ジャパンビバレッジ)はその後、57キロ級に変更して五輪4連覇の伊調馨(ALSOK)との注目のプレーオフを制し、東京五輪の代表を獲得した。「妹の友香子(ジャパンビバレッジ)が同じクラスになったために自らが57キロ級へ階級変更した」と言われたが「妹のためというのは少し違う。もともと57キロでやっていたし」と話している。彼女もあまり苦労せずに階級変更できる体質のようだ。国内大会や世界選手権では「非五輪階級」も多くあり、優勝者なども「いずれは五輪階級に変更したい」と狙っている。しかし、階級変更は難しく、4年に一度のオリンピックをめぐってはある意味「賭け」でもある。
 樋口黎はアジア選手権で計量パスしていれば2位以内で五輪代表が決まるはずだった。その可能性は高かったとされる。リモート会見で「階級を変えていなければ?」の質問に樋口は「減量のトレーナーについてもらい、マックスまで絞っていったが57キロのベストに届かなかった。でももう、タラ、レバの話をしても仕方がないと思う」と言葉少なだった。
 反対に相手の高橋は「計量は高校時代、柔道をしていた頃からずいぶんやってきた。減量は多くないので前半から攻められた」と振り返っている。実力伯仲の二人、勝敗のポイントはやはり減量だった。2大会連続五輪が消え、「しっかり心を休め、これからどうしていくか、気持ちの整理を付けながら考えたい」とうなだれる「50グラムに泣いた五輪銀メダリスト」の姿は、階級制の格闘技における階級変更の難しさを象徴していた。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

デイリー新潮取材班編集

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