「ビッグダディ」秘話 制作者が明かす清志さん“出演拒否騒動”と美奈子の関係

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 2006年の放送開始から7年間、計20回に亘って人気を誇ったドキュメントバラエティ番組「痛快!ビッグダディ」(テレビ朝日)。番組のプロデューサーで、“ビッグダディ”こと林下清志氏(56)を見出した制作会社「ゼロクリエイト」の石川修元代表が、元妻との再婚、番組終了の危機、そして新恋人発覚の経緯を明かした。

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 石川氏が、林下一家に初めて会ったのは、2006年4月のことだった。

 1991年に「ゼロクリエイト」を設立した石川氏は、「元祖!大食い王決定戦」(1991年・テレビ東京)、「TVチャンピオン」(1992年~、テレビ東京)、「電波少年インターナショナル」(1994年~、日本テレビ)など、高視聴率番組を制作。ドキュメントバラエティの第一人者として、数々のヒット番組を生み出してきた。2002年に「愛の貧乏脱出大作戦」(1998年~、テレビ東京)が放送終了し、次なる題材を探していた時、石川氏はリサーチ会社から“子ども8人を父ひとりで育てている一家がいる”という報告を受けたのだった。

 当時、岩手県久慈市で暮らしていた林下一家は、テレビ出演を快諾。その後、長女の高校進学を機に、子育てへの金銭的な支援が充実した鹿児島県奄美市への移住を決めた。

 南国での新生活を始めて1年が経った頃、林下一家のもとに元妻が三つ子を連れてやってくる。この再会は、番組の提案を受けて実現したものだったが、その後、元妻は奄美への移住を決断。対し、復縁を拒む姿勢を崩さない清志氏だったが、次第にその仲は縮まり、元妻が身籠もったことをきっかけに再婚を果たしたのだった。2008年には、2人にとって9人目の子どもとなる紬美(つむみ)が誕生。元妻の連れ子の三つ子と共に、一家14人の生活が始まった。

「赤ちゃんが生まれたことで、それまで色々あった元妻・佳美さんと清志さんの仲も、このまま丸く収まるのかと思いました。ところが、夫婦は一緒に住むうちに互いに不満を募らせていくんです。さらに、この頃、もっと大きな問題として今後の家計の不安が出てきました。家族が増えたことに加えて、子どもたちが成長するにつれて食費や生活費がますますかかるようになり、一家の暮らし向きはどんどん厳しくなっていったのです」(石川氏)

接骨院に患者が集まらない

 一家の生活は、柔道整復師の資格を持つ清志氏の肩に掛かっていた。大和村の自宅に併設した接骨院と、一時は市街地・名瀬の分院でも働くことで、築50年の一軒家の家賃3000円と14人分の生活費を賄ってきた。

「番組に出て有名になってからは、観光客がやってくることもあったようです。しかし、もともと奄美は人口が少ない土地ですから、当然、接骨院に来る患者も少ない。田舎のおじいちゃんおばあちゃんが、お金を出してしょっちゅう治療を受けには行かないのでしょう」(同)

 一家は、奄美にやってきた当初から近くの海で魚を釣ったり、村の人から借りた畑で野菜を作ったりと節約生活を続けた。もっとも、石川氏によると、番組に出演することで「一回の放送につき、50万円程度の謝礼」が支払われていたという。

「出費が重なった時などは、早めに謝礼をお渡しすることもありました。ですが、もともと清志さんはお金に執着しない方だったので、生活が厳しくなっても“ギャラを上げて欲しい”などと言いだしたことはありませんでした。かといって、“困っているなら”と番組がお金を援助してあげることも出来ません。あくまで我々がやっていたのはドキュメントバラエティなので、そういった介入の仕方は一線を越えるからです。一方で、佳美さんが働きに出たいと言いだした時には、鹿児島南九州市の茶畑の働き口を見つけてあげたことがありました」(同)

 元妻は茶摘みの仕事に就いたが、苦しい家計の根本的な解決にはならなかった。

「このままではどうにもならないと考えた清志さんは、住み込みで仕事が出来る接骨院を番組と一緒に探し、愛知県豊田氏の接骨院に働き口を見つけました。しかし、そのままではひとり奄美で12人の子ども達の世話をしなければならなくなる元妻は、なんとか奄美で仕事を続けて欲しいと、清志さんの出稼ぎに反対。それに対して、元来頑固な性格の清志さんは『一生奄美に住み続けたいから、そのために今は出稼ぎに行かないといけない』と主張し、元妻の説得を聞くことはありませんでした」(同)

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