妻殺害の「講談社元次長」が二審有罪で“自主退職” 大学時代の仲間は「支援する会」を設立

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密室内で起きた事件

 事件の発生は5年前に遡る。16年8月9日午前3時頃、東京都文京区の一軒家から119番通報が入った。通報したのは朴被告本人。救急隊員が駆けつけると、玄関近くで心肺停止の状態で倒れている妻・佳菜子さん(当時38)が見つかり、病院に搬送されたが、まもなく死亡が確認された。

 家の中にいたのは、夫妻と乳児も含む4人の子供たちだけだった。当初、警察の取り調べに対し、朴被告は「妻は階段から落ちた」と供述したが、やがて「首を吊って自殺した」と変遷させた。

 検死の結果、死因は窒息死と特定された。1階寝室のマットレスやシーツからは、窒息死した際に出る、失禁した妻の尿や血液が混じった唾液が検出され、警視庁はこれらの証拠をもとに、朴被告が寝室で妻の首を絞めて殺害したと断定。発生から5ヶ月を経た17年1月に逮捕に踏み切ったのであった。

 決定的な凶器や目撃証言がないこの事件の裁判では、現場に残されていた血痕や尿班、佳菜子さんの遺体にあった左前額部の挫裂創や、表皮剥脱などの証拠をもとに、「殺人」か「自殺」かで、検察側と弁護側が全面的に争ってきた。

 検察側の主張は、朴被告が1階の寝室で佳菜子さんを腕で絞めて脳死状態に陥らせたというものだ。その後、殺人ではなかったと偽装するために、佳菜子さんを階段の途中まで担ぎ上げ、突き落とした過程において、佳菜子さんは息絶えたとされる。

 一方、弁護側は、佳菜子さんが生後10カ月の末っ子に乱暴しようとしたことが原因で、1階寝室で朴被告と佳菜子さんがもみ合いになり、朴被告が腕を使って押さえ込んだことは認めつつも、殺していないと主張。押さえ込んだ後、佳菜子さんが一度、静かになったため、朴被告が末っ子の様子を見ていると、佳菜子さんが起き上がって包丁を持っていたので、末っ子を連れて2階の子供部屋に避難した。しばらくして、佳菜子さんも2階に上がってきてドアを開けようとしたが、危険を感じたため開けなかった。数十分後、子供部屋から出ると、階段の手すりに巻き付けたジャケットで首を吊って自死を遂げていた――という「自殺ストーリー」を展開した。

 裁判員裁判となった19年3月の一審判決で、東京地裁は「(自殺ストーリーは)不自然な状況を想定しなければ説明できないか、そもそも合理的な説明が困難な事情ばかりが見られ、全体として見ると、現実的にあり得る可能性とは認められない」と弁護側の主張を退け、朴被告が寝室で妻の首を絞めて窒息死させたと認定し、懲役11年を言い渡した。

「親友の言葉を信じたい」

 今年1月の東京高裁判決も一審判決を支持し、控訴を棄却。この二審判決がきっかけとなり、朴被告が通っていた京都大学の同級生たちが中心になって、本格的な支援に向けて動き始めたという。呼びかけ人であり、共同代表の佐野大輔さん(44)が語る。

「私は在学中から朴と仲良く、卒業後もお互い東京で仕事していた関係から、家族ぐるみで付き合いがありました。亡くなった佳菜子さんや子供たちのことも知っています。逮捕後は、残された4人の子供たちが心配で、1、2カ月おきに自宅を訪ねて、ご家族の様子を見守ってきました」(同前)

 佐野さんは一貫して、朴被告の無罪を信じていたという。

「逮捕前に、直接、彼から当日起きたことを事細かく説明を受けています。親友の言葉を信じる気持ちが揺らいだことはなく、一審で有罪判決が出た後も、二審でひっくり返るだろうと考えていました。ただ、裁判については、講談社が全面的にバックアップしていたので任せきりで、詳しい内容は知りませんでした」(同前)

 支援する会を始めるきっかけとなったのが、二審判決後、朴被告を個人的に支援してきた講談社の同僚と出会いだった。

「朴のお母さんの紹介でその方に会ってみると、彼も僕とまったく同じスタンスで、家族のサポートに徹してきた人でした。同僚の方は、『事件のことはよくわからないが、子供たちのためにできることをしてあげたい』、『お父さんの無実を信じている人がこんなにもいると伝えてあげたいという思いで、署名を集めている』と話すのです。それならば私もと思い、OBも参加しているサークルのフェイスブックで声がけをした。すると、同意してくれる仲間たちが次々と集まった。現在、会のメンバーは、サークルのOBが中心に36人。講談社の元同僚や朴の親族も入っています」(同前)

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