商社マンをしながらウィンブルドンに挑戦した清水善造 ただ「好き」という気持ちに突き動かされ(小林信也)

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カルカッタで硬式に

 だが今回改めて清水善造を紹介したいと思った最大の理由はそこではない。100年以上も前に、世界を股にかけて戦った清水がテニスに目覚める道のりに思いを馳せたかった。

 清水は、1891(明治24)年3月、群馬県箕輪村(現在の高崎市)で生まれた。子沢山の長男。両親はわずかな田畑から得る収入では家計を賄えず、乳牛を飼い、牛乳を売っていた。清水は高等小学校時代、家から10キロ離れた問屋まで牛乳を取りに行くのが日課だった。成績優秀で高崎中に入学後も、登校前に乳しぼりと牛乳配達。片道15キロ近い学校から歩いて帰ると、牧草刈りが待っていた。そんな中学時代、部活動でソフトテニスに出会い、熱中した。当初、フォアで打つとき右足を前に出す清水のフォームはひどく不格好だったが、ショットは正確だった。

 現在の一橋大学を卒業し商社マンになると、インドのカルカッタ支店勤務を命じられた。そこで初めて、硬式テニスに出会う。美しい芝生のコートで、仕事の後、連日硬式ボールを打ち合った。その興奮と感激を想像すると胸が躍る。

 フォームはスマートではないが、メキメキ実力を伸ばした清水は13(大正2)年、第33回ベンガル州選手権に出場。毎年王座を奪っていたイギリス人を凌ぎ、初出場ながら優勝。翌年は敗れたが、15年から19年まで5連覇も飾った。

 17年には、出張で訪れた南米ブエノスアイレスで開かれた南米選手権に出場し、優勝。突然現れて王座に就いた日本人を、現地の人々はどのような眼差しで迎えたのだろう。

 20年に清水が日本人で初めてウィンブルドン出場を許されたのはこうした実績があったからだ。また、8年間の海外勤務のご褒美として、数カ月の休暇が許されたお陰で清水はウィンブルドンに出場できた。成熟した現在のスポーツ界にない“地図のない旅”、さまざまな出会いと発見に満ちたときめきが清水のテニス人生には溢れている。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2021年6月3日号掲載

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