日本最年少でカンヌに出品した映画監督・井樫彩が語る「東京」 ドラマに憧れて上京…一度は絶望して実家に

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ドラマで見た「東京」に憧れ上京

 カンヌ国際映画祭に日本史上最年少で出品し、最新作「NO CALL NO LIFE」が公開されたばかりの映画監督の井樫彩。北海道で生まれ育ち「東京フレンズ」に憧れていた彼女が夢を追いかけて出てきた東京の景色とは。

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「東京」は、憧れそのものだ。

 北海道の片田舎で生まれ育ち、平凡に18歳まで過ごした。けれど、振り返ればいつも「ここではない何処か」を探していた気がする。「東京」のことを語るには、やはり過去に遡る必要がある。

 14歳の頃、「東京フレンズ」というドラマに釘付けになった。高知県の田舎町で生まれ育った平凡な女の子が、テレビの中の東京に憧れて上京。生涯の友人たちと出会い、恋をし、夢を見つける。当時わたしには心からの友はおらず、恋もできず、そして夢もなかった。わたしの欲しかったものの全てが、そこにあった。東京はわたしの憧れになった。

 地元の高校に進学しそれなりの青春を謳歌するのもつかの間、すぐに進路を決めなければいけなくなる。「進路」という言葉は、夢のなかったわたしには重かった。「やりたいものはなくてもいいから、これならいいかもなというものは何かないの?」というある先生の言葉に、少し考えて「映画」と口にした。また別の先生は「映画なら、東京だね」と。東京。胸が高鳴った。ずっと憧れていただけの「東京」に出る理由ができた。そこからはあっという間だった。

 18の春、わたしは東京にいた。ドラマの主人公を真似て、地元の友達とルームシェアをし、同じようにバイト先は居酒屋を選んだ。けれど、突如映画の才能が芽生えるわけもなければ、生涯の友に出会うわけでもないし、恋もない。あるのはバイト終わりの油臭さをまとったままの身体で、終電に乗る自分だけ。「間違った」と思った。当然、ドラマのようにはいかなかった。

制作が止まり、逃げるように実家へ

 2017年夏、わたしは埼玉県で長編映画デビュー作「真っ赤な星」の撮影をしていた。生活もお金も日常のほとんどを捨て、「夢」のすべてを賭けていた。残すところあと2割……というところで、諸事情により制作が続けられなくなった。「すべてが失くなる」。恐怖でしばらく東京に戻れなかった。数日経ってようやく、東京へ戻った。大量に行き交う人々、ぐちゃぐちゃの一人暮らしの部屋、空っぽになってしまった自分。友人たちと会って気を紛らわせようにも、「友人たち」は「東京」で「夢」を持っている人ばかり。どん詰まりだった。「東京は夢破れた人間に冷たい」そう思った。夢を求めて東京に来た人間が夢を失ってはそこに存在意義がなかった。わたしは逃げるように実家へ帰った。帰って、またあの頃をなぞるように何もない日々を過ごした。傷つくことはないが、刺激はない。けれど東京に戻るのは怖い。どこにも存在できない心を抱えたまま、ただ長い一日一日の終わりを迎えていった。それは撮影再開の連絡が来るまで続いた。

 わたしはいま、東京で映像の仕事をしている。いまだに、あの頃憧れた「東京」をやっている。いまとは違う景色を見たくて、走っている。一体どこまで行きたいのか、何を見たいのかわからないけれど、いつだってこの道から脱落してしまいそうな不安を抱えながら、まだ、憧れている。

井樫彩(いがし・あや)
1996年北海道生まれ。映画監督・脚本家。「溶ける」がカンヌ国際映画祭に日本史上最年少で出品。最新作「NO CALL NO LIFE」が先日公開された。

2021年6月5日掲載

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