「名古屋アベック殺人」主犯少年のいま、無期懲役の身に置かれて

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「無期懲役」と「終身刑」

 話を進めていく前に、あらかじめ知っておきたいポイントが2つある。

「無期懲役」と「終身刑」は混同して語られることが少なくないが、制度としては大きく異なっている。「無期懲役」は、「懲役5年」といったような刑期の定まった懲役刑ではなく、刑期の終わりのない刑罰を意味する。言葉のままとらえれば、受刑者が死亡するまで刑を科すことになるが、決して社会復帰の望みが絶たれているわけではない。刑法28条にはこう記されているからだ。

「懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる」

 決定条件や基準などは「仮釈放、仮出場及び仮退院並びに保護観察等に関する規則」で別途定められているが、刑法上では10年を過ぎれば、仮釈放の「有資格者」となる。

 これに対し、終身刑はこうした仮釈放の可能性を認めていない。無期懲役と区別するために、終身刑を「絶対的無期懲役」と表現することもある。終身刑は欧米などには導入されているものの、日本にはない制度だ。

 もう一つのポイントは、無期懲役囚は実際には何年ほどで仮釈放されているか、という点だ。刑法の条文にあるように、10年が経過すれば釈放されるのだろうか。

 弁護士など専門家の中にも「無期懲役といっても、15年ほどで仮釈放される」ということを語る人がいる。だが、現状から照らし合わせると決して事実ではない。

 法務省の統計によると、14年に仮釈放された無期懲役囚はわずか6人で、この6人の平均収容期間は31年4カ月にのぼる。05~14年の期間で見てみると、仮釈放された無期懲役囚は54人。この10年間で、仮釈放された無期懲役囚の平均収容期間は27年2カ月(05年)から31年4カ月(14年)と長期化している。

 注意しなければならないのは、この「平均収容期間」は、あくまでも仮釈放された無期懲役囚の数値であり、仮釈放が認められず、刑務所に収容されたままとなっている大部分の無期懲役囚たちの収容期間は一切反映されていないという点だ。

 14年末現在で全国の刑務所に収容されている無期懲役囚は1842人いるが、このうち27人が40年から50年、12人は実に50年以上にわたって服役を続けている。05~14年の間に獄中で死亡した無期懲役囚は154人と、仮釈放された54人の3倍近くに達していることからも、いかに塀の外へ出ることが困難かがわかるだろう。これでは、まるで事実上の終身刑だ。

厳罰化の流れの中で

 もっとも「15年で出られる」といった説が、まったく根も葉もないというわけではない。1990年代後半までは、仮釈放される無期懲役囚は年間2ケタ台で推移し、平均収容期間も20年程度と短かった。長期化している背景にあるのは、犯罪に対する厳罰化の流れだ。04年の刑法改正では、有期刑の上限が20年から30年に引き上げられている。無期懲役は有期刑よりも厳しい刑罰であることから、服役期間が30年未満での仮釈放は現実的ではなくなったのだ。

 同じ年には「犯罪被害者等基本法」も成立し、07年12月には、被害者が加害者の仮釈放について意見を述べることができる制度も導入された。「被害者が、凶悪な犯罪を起こした加害者の仮釈放を受け容れることは容易ではない」(法務省関係者)ことから、仮釈放へのハードルは一層高まることとなった。

 受刑者との面会は、原則として、あらかじめ刑務所側に登録してある親族や知人などに限定されている。中川とは取材を通じて文通を重ね、知人として07年から面会することが可能となった。今夏48歳となるが、五分刈りで痩せた中川の姿はこの10年ほどでほとんど変化がない。「元気そうですね」と声をかけると、中川は意外なことを口にした。

 前年8月26日、運動中に突然倒れ、くも膜下出血と診断されて2週間、刑務所外部の病院に入院していたのだ。「倒れてから丸1日、意識がなかったんです」。アクリル板に開けられた小さな穴を通して聞こえてくる声に、衰えなどはまったく感じない。だが、一時は生死の境をさまよい、医師は回復したとしても後遺症が出る可能性が高いとの見立てだった。

 長い間味わっていなかった塀の外の空気を感じる余裕はなく、ベッドに横たわり、体からはいくつものチューブが伸びて医療機器につながっている。久々に見る若い女性である看護師にも、もちろん心躍ることはなく、意識がもうろうとしたまま時間を過ごした。それでも、治療の甲斐があって中川は順調に回復し、退院後は刑務所内の病舎で日々を送り、今年5月には刑務作業に復帰している。この間に足腰の筋肉が落ち、立つとふらつくこともあったが、現在は後遺症もなく、日常生活での支障は全くないという。

「死んでもおかしくない状況でしたが、それでも生きることができたのは、私にはまだやるべき使命が残されているからだと思い、感謝の気持ちでいっぱいです。命の重みを感じ、私が奪ってしまった命の重さや尊さをあらためて身をもって知りました」

 噛みしめるように話す中川の姿を見ると、多くの人には純朴な人物として映るだろう。そこに、男女2人を惨殺した凶悪事件の主犯格という姿を重ねるのは難しい。服役生活は、拘置所での収容期間を合わせると28年ほどになる。それらの日々が、中川に変化をもたらしたのだろうか。

犯罪史に刻まれる凶悪事件

 中川の起こした事件は「名古屋アベック殺人事件」と呼ばれ、戦後の犯罪史に刻まれている。執拗な暴力と残忍な手口で被害者を死に至らしめたことに加え、6人の加害者のうち当時20歳だった暴力団組員の男以外は17歳から19歳の未成年(うち2人は女性)だった事実が、社会に大きな衝撃を与えた。

 1988年2月23日早朝、愛知県名古屋市緑区の大高緑地公園で、通行人がフロントガラスや窓ガラスが粉々に破壊された乗用車を発見する。通報により駆けつけた警察官が、車内から血の付いた下着を発見し、捜査が開始された。すぐに、車に乗っていた理容師の男性(当時19)と、理容師見習いの女性(同20)の2人が行方不明になっていることが判明。目撃情報などから4日後に、とび職だった中川ら6人が逮捕され、供述から三重県の山中で男女2人の遺体が発見された。

 事件は、凄惨という言葉がそのまま当てはまる。

 起訴状などによると、6人は23日の未明、大高緑地公園の駐車場で、車に乗ってデート中だった2人を外に引きずり出し、鉄パイプや木刀で執拗に暴行。現金約2万円などを奪い、男たちは女性を乱暴した。さらに2人を自分たちの車で連れ回した挙げ句、事件の発覚を恐れ、24日に愛知県長久手町の墓地で男性の首をロープで絞めて殺害する。25日には女性を三重県内の山林に連れて行き、やはりロープで首を絞めて殺し、掘った穴の中に2人の遺体を埋めた。

 殺害方法は、綱引きのようにして両側からロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。6人は事件の直前にも、名古屋市内で別のアベック2組を襲い、うち1組の男女に全治1週間のけがを負わせた上、現金など計約10万円相当を奪うなど、場当たり的で快楽的な犯罪を繰り返していた。凶行は、その延長線上で起きた。

 同じ時期(88年11月から89年1月)には、東京都足立区で少年4人が女子高生を41日間にわたって監禁し、暴行を繰り返して死亡させ、遺体をドラム缶に入れてコンクリート詰めにしたうえ遺棄した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」が発生している。少年犯罪に対する世間の目は、厳しさを増していた。犯行当時19歳だった中川が、事件の悪質さから検察官送致(逆送)となり、少年ではなく成人と同じように裁かれることになったのは当然のことだった。

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