野村克也監督が最も慌てた試合も…今や懐かしい「ダブルヘッダー」で起こった珍場面

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「考える力も弱ってきますな」

 近年のプロ野球は、過密日程の緩和やドーム球場の普及などにより、ダブルヘッダーが見られなくなった。セ・リーグは1998年10月10日の横浜vs中日、パ・リーグは同年10月9日の西武vs.オリックスが最後だ。2000年代以降も、前日の試合が雨天中止の場合、次の日にダブルで消化する予定のカードがいくつかあったが、いずれも日程どおり催行され、実現には至っていない。

 過去には、1988年の“伝説の10・19”や89年の近鉄・ブライアントの“奇跡の4連発”など、球史に残る名勝負、名場面を数多く生み出したダブルヘッダーだが、その一方で、過密日程ならではの珍事も起きている。

 シーズン終盤の日程調整で、対戦相手の異なる変則ダブルが組まれた結果、1日に2球場で登板したのが、広島・中村光哉である。67年10月12日、広島は13時から後楽園で巨人、19時から神宮でサンケイと対戦することになった。

 球場を変えてのダブルヘッダーというプロ野球始まって以来の珍事は、前日の11日に巨人とダブルヘッダーを行った広島が、第1試合を4対4と引き分けたことが原因だった。

 同年は引き分け再試合制だったため、通常なら13日以降に日程を組み直すのだが、巨人はシーズン最後の4日間で計6試合を消化する過密日程に加え、日本シリーズも控えているため、折り合いがつかない。そこで、唯一両チームの日程が調整可能だった12日の昼間に急きょ再試合が組み込まれた。

 この結果、3日連続のダブルヘッダーとなった広島・長谷川良平監督は「この毎日2試合じゃ、考える力も弱ってきますな」とボヤいたが、球団マネージャーはもっと大変だった。第1試合の巨人戦の最中にベンチと宿舎を往復しながら、2つの旅館に分泊する話をやっとの思いでまとめて、第2試合の前に選手の半数を宿舎で休養させようと、「夜の部の人はもう引き揚げてください」と声をからした。15時38分に試合が終了したとき、広島ベンチに残っていたのは、長谷川監督と8回に4番手でリリーフした中村を含めて12人だけだった。

 そして、第2試合でも、中村は8回から4番手としてマウンドに上がり、2試合とも無失点で切り抜けた。1日に2球場で登板した投手は、今でも中村ひとりだけ。実働2年で0勝0敗に終わった無名の投手は、前代未聞の珍事で名を残すことになった。

「アウトになれ!」

 球場は同一ながら、ダブルヘッダーの2試合とも先発するという珍記録を作ったのが、大洋・関根浩史である。入団2年目の84年に先発陣の一角に成長した関根は、自身初の規定投球回数到達まであと「10」と迫った。だが、延長戦にならない限り、1試合での到達は不可能。そこで、「何とか届かせてやりたい」と考えた関根潤三監督は、10月10日のダブルヘッダー、広島戦で2試合とも先発させることにした。

 第1試合で8回を投げた関根は、第2試合も2回まで投げ、規定投球回数の「130」(当時)に達したところで降板した。「第1試合に勝ってから達成したかった」という関根だが、味方打線の援護に恵まれず、1対3で負け投手に。

 第2試合も初回に1点を失ったのが祟り、1対2で無念の1日2敗。「この経験が必ず来季につながると信じたい」と3年目の飛躍を誓った関根は翌85年、自己最多の6勝を挙げている。

 日没コールドを阻止すべく、コント顔負けのドタバタ劇が繰り広げられたのが、76年4月18日の近鉄vs.南海である。第1試合終了後、15時過ぎに始まった第2試合は、8回まで1点をリードされていた南海が、9回に3安打を集中して3対2と逆転。なおも1死満塁のチャンスだった。

 だが、この時点で時計の針は18時20分を指し、13分後に日没が迫っていた。当時の藤井寺球場にはナイター設備がなく、もし9回裏の近鉄の攻撃が長引いた場合は、規定により、8回コールドの2対1で近鉄の勝ちとなる。

 せっかく逆転したのに、これでは苦労が水の泡だ。南海・野村克也監督は、投手交代後、近鉄の野手が必要以上にマウンドに集まり、時間を稼いでいる様子を見て、ハッと思い当たると、ベンチ全員に「アウトになれ!」と声を張り上げさせた。

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