8歳で100を、10歳で80を切る 松山英樹の破天荒エピソード 父の情熱指導と恩師が語る秘話

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4歳の頃に父からアイアンを渡され

 海外男子メジャーのマスターズは11日、米ジョージア州のオーガスタ・ナショナルGCで最終ラウンドが行われ、松山英樹(29)が悲願のメジャー初制覇を果たした。アジア人で初めての快挙を成し遂げた松山英樹を作ったものとは?

(週刊新潮2013年6月13日号に掲載された記事に加筆・修正しました。肩書などは当時を採用しています)

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 ゴルフ・ジャーナリストの早瀬利之氏によれば、

「英樹くんは、地元・愛媛県松山市で取れる魚の、それも骨までボリボリ食べて育ちました。ジャンボ尾崎や中嶋常幸に見劣りしない骨太の体格は、そうした食生活あってのものでしょう」

 今でこそ、181センチ、85キロの堂々たる偉丈夫だが、少なくとも中学生までは華奢で、身長順に並べば前から数えた方がうんと早かった。

 松山家は5人家族で、両親、そしていずれもキャディを務める姉・妹がいる。四国の豊かな海の幸が怪物の礎を作ったのだとしたら、怪物の爪を研ぎ澄ましたのは、父・幹男さんだ。

 松山は4歳の頃、幹男さんからアイアンを渡され、ゴルフの手ほどきを受けた。幹男さんのゴルフの腕前は相当なものだったようで、

「学生の頃からゴルフを始め、早くから愛媛を代表するアマになりました。2006年に日本アマチュアゴルフ選手権に出場していますし、ハンディキャップはゼロです」

 というから、トンビがタカを生んだということではないらしい。

 手渡されたアイアンに話を戻すと、大人用のクラブを切って仕立てられた9番だった。この9番アイアンとその後に与えられたサンドウェッジを携え、松山は球打ちにせっせといそしむようになる。

10歳で80を切るまでに

 初ラウンドは6歳、スコアは136だった。

「幹男さんはサラリーマンなので、土日にクラブにやって来るのですが、必ず英樹君を伴っていました。6歳くらいから顔を出していて、ゴルフ好きな少年としてクラブ内で有名でしたよ。お父さんがラウンド中の5時間ほど、コース横にある練習場でアプローチやパターを黙々と練習していました。もちろん一人でね」

 とは幹男さんが所属する北条カントリー倶楽部の評議員・岡本大吉さんだ。

 松山はその後、8歳で100を、10歳で80を切るまでに腕を上げる。前述したように小柄な彼は、ドライバーの飛距離が玉に瑕だったが、

「パー4のホールなら、2打を終えて100ヤード以上を残す感じ。でもそこから1打でグリーンに乗せ、パーにしてしまうこともしばしばで、アプローチは天才的でした。また、大人に交じってコンペに参加した時のこと。5回もバンカーに入れてしまったにもかかわらず、それを全部パーにして、みなが目をむいていました」

 怪物は小学生にして、大器の片鱗を見せつけていた。

 岡本さんが続ける。

「全て幹男さんの指導の賜物です。熱血というよりは熱心で、英樹くんがラウンド中にミスすると、“次は頑張ろうな”と声をかけ、細かくアドバイスをしていました。ゴルフは楽しいものと伝えたかったのでしょう。幹男さんが怒っているのを見たことがありません」

 松山が中学生になる頃には、

「幹男さんは自分のラウンドそっちのけで、英樹くんを指導するようになりました。また、自宅のひと部屋を潰し、パターの練習用マットが敷かれていました。息子の実力を確信し、プロ入りを意識していたはずです」

 当初、中学校は地元の公立校だったが、2年生の時に転機が訪れた。高知県の名門・明徳義塾に編入したのだ。

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