8歳で100を、10歳で80を切る 松山英樹の破天荒エピソード 父の情熱指導と恩師が語る秘話

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ギプスをはめたまま強行出場

 幹男さんと旧知である神田重廣・高原ゴルフ倶楽部総支配人はこう明かす。

「英樹くんは確かに、ドライバーは飛ばなかったけれど、その分アプローチで挽回してパーを取るセンスがありました。それをもっと伸ばすべく、環境の整った明徳義塾でゴルフをさせてはどうかと勧めたのです」

 幹男さんは当初は反対だった。明徳では寮生活が待っているのも一つの理由だったかもしれない。

「それでも最終的には、明徳入りにゴーサインを出した。その後の成功を見れば英断だったと思います」

 松山を受け入れた明徳の高橋章夫監督が、当時を振り返る。

「上手いけれど特段上手いわけではなかった。ただ、のびのび練習しているのを見て、“僕好みの選手だ”と惚れこみ、ぜひウチでと編入をお願いしたほど。松山はマジメな努力家です。僕は明徳ゴルフ部の監督を30年やってきましたが、練習量は歴代一ですね。よくあるように髪の毛をいじったりチャラチャラすることはなかった」

 そんな監督の記憶に強く残っているエピソードがあると言う。

「中学2年夏の四国ジュニア選手権の直前、友だちとはしゃいで溝に落ちて手の指を骨折してしまったことです。それでもギプスをはめたまま強行出場して2位になった。ホントにゴルフが好きなんだと感心しました」」

 最後に。松山が長じてから、父の幹男さんは参加する大会を観戦することはあっても、意識的に目立たないようにしてきたという。自分の手を離れたのに父親がでしゃばるのはよくない、そう考えていたようだ。

 四国の海の幸、父親のDNAと的確な判断、恩師との出会い‥…。怪物が生まれ、快挙を成し遂げるまでに、しかるべき人がしかるべき場所にいたということなのかもしれない。

デイリー新潮取材班

2021年4月13日掲載

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