「寛容」なはずのリベラルがなぜ「不寛容」を招くのか 『不寛容論』著者の提言

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人間の底知れぬ闇

 心の中まで寛容を求めないということは、「感情の動員」を求めない、ということです。これは、近年のPC(ポリティカル・コレクトネス)についても言うことができます。もちろん、今日の社会に蔓延している不平等や不正義は、解消してゆかねばなりません。でも、社会常識として何が正しいかという考え方の中身まで事細かに指示されると、どうしても息苦しさを感じてしまいます。たとえそれが正しい主張でも、納得するより先に反感が生じてしまうのです。

 アメリカでトランプ氏を支持した人々の多くは、いわゆる「リベラル疲れ」を感じていた人でした。客観的なニュース報道を見ようとしてチャンネルを合わせるのに、テレビ局はたとえばアフリカの病気の子どもを映し出して、視聴者の同情を求める。まるで「この子をかわいそうと思わないなら、あんたは人でなしだ」と言われているようで腹が立つ、というのです。

 誰を気の毒に思うべきかは、心の中の問題です。そんなことまで、リベラルな知識人に指図されたくない。そうやって自分たちはいつも「無知で時代遅れで無教養な貧しい白人」という侮蔑的な目で見られている。そのことに彼らはうんざりしているのです。こういう絶望感は、トランプ氏の一人や二人がいなくなっても、そう簡単に消えるものではないでしょう。

 だから、表にあらわれる言葉や行為については慎みと礼節を求めるべきですが、心の中で何を思っているかまでは問い詰めない方がよいように思います。人の心には、どんな魔物が棲んでいるかわからない。藪をつつけば蛇が出てくるかもしれない。そこは結局のところ、本人と神のみぞ知る倫理空間です。

 近代の合理主義は、こうした人間のもつ底知れぬ闇をうまく理解できません。特にリベラルなヒューマニズムにとり、人間は無限の可能性をもった存在です。だからしっかり教育して、向上させ進歩させなければならない。そういう見方からすると、だらしのない人間にはどうしても不寛容になります。中世では寛容に扱われていた盗人や売春婦や物乞いなどは、厳しく罰して社会に有用な人間に造り変えねばならない、それができなければ放り出せ、ということになります。

 その点で聖書は案外現実主義的です。旧約聖書には、「罪が門口に待ち伏せしています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めねばなりません。」(創世記4:7)と記されています。この世に生きる人は、罪や悪と無縁に生きることはできない。せいぜいできるのは、「一病息災」と言うように、悪を最小限に抑え、何とかなだめすかして共存することです。その理想と現実のギャップを埋めるのが、寛容なのです。

 こういう人間理解には、どこかもの淋しさが漂います。結局人は、お互いに心の底まではわかり合えない、ということになるからです。でも、「隠し事は絶対しないでね」なんて、新婚時代くらいのものです。人が人格をもつということは、秘密をもつということと同義です。完全に透明な理解を求めるのは、愛というより支配に近い気がします。

是認でも理解でもなく

 拙著『不寛容論』では、植民地時代のアメリカで、ロジャー・ウィリアムズというピューリタンが真の寛容を求めて苦闘した生涯をたどりました。この人は本当にとんでもなく常識外れの頑固者で、一見するとわれわれの思い描く「寛容な人」とは正反対なのですが、そういう彼だからこそ、筋金入りの寛容論者になりました。彼は、アメリカの土地は先住民のものだから、イギリスの国王がそれを与える権利などない、と主張して政府と対立し、マサチューセッツから追放されてしまいます。

 彼の論理は単純で一貫しています。自分にとって自分の信仰はかけがえのない大切なものだ、ならば他人にとってもその人の信じているものは大切であるに違いない、というのです。だから彼が後に創設したロードアイランド植民地では、どんな宗教の人でも受け入れられるように、宗教と政治とが完全に分けられていました。史上初の政教分離社会です。

 といって彼は、相手に合わせて自分の主張を変える、などということはしませんでした。間違っていると思えば、たとえ相手が国王だろうと先住民だろうと、平気でそう言います。ただしそれは、あくまでも礼節を守り、じっと黙って相手の言葉を待つような対話です。こうした礼節の作法を、ウィリアムズは終生の友であった先住民の態度に学びました。

 オリンピックでは、異なる宗教や価値観をもった人々が一堂に会します。なかには、近代西洋が当然の前提としてきた自由や平等という価値を共有しない文化もあります。寛容という価値も、全世界で普遍的に共有されているわけではありません。そのことを自覚していないと、いわゆる「寛容の強制」という不寛容が生じます。これもパラドックスの一つですが、特にリベラルな現代人は、気をつけないと知らぬ間に陥ってしまう危険があります。

 日本人が最近気にしている「男女平等指数」の世界比較も、その一つです。もちろん日本の甚だしいジェンダー・ギャップは、解消されねばなりません。しかし、オリンピックに集まる世界の国々の中には、そんな順位など気にもかけない文化を持つ国もあります。そういう国の人に向かって、わたしたちは何と言えばよいのでしょう。あなたの考えは時代遅れだから、さっさと改めなさい、と言うのでしょうか。そういう国は、オリンピックにふさわしくない、と排除するのでしょうか。多様性の尊重は、口で言うほど易しいことではありません。

 寛容は、是認でも理解でもありません。相手を善と認める必要もないし、相手を好きになる必要もない。それでも、相手を拒絶したり排除したりせず、お互いに礼節を守って考えを聞き合い、共存することはできます。

 考えてみると、アトキンソン氏が日本社会に受け入れられているのは、まさにこのような日本的寛容の実践の結果と言えるかもしれません。私のこの原稿や日頃の言動も多くの方に寛容に受け止められることを願っています。

森本あんり(もりもとあんり)
国際基督教大学教授。1956年、神奈川県生まれ。国際基督教大学、東京神学大学大学院を経て、プリンストン神学大学院修了(Ph.D.)同大やバークレー連合神学大学院で客員教授を務める。専攻は神学・宗教学。著書に『キリスト教でたどるアメリカ史』『反知性主義』『異端の時代』など。

週刊新潮 2021年4月8日号掲載

特集「リベラル社会の陥穽 「寛容」という名の「不寛容」より

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