東京電力と右翼の黒幕「田中清玄」 共産党の発電所破壊工作を阻止した男(徳本栄一郎)

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「じゃ、今すぐここで俺と勝負しろ」

 北海道出身の太田は、戦争中、東京帝国大学に入学してすぐ海軍予備学生となり、少尉として終戦を迎えた。復学後に三幸建設に入社、晩年まで行動を共にし、いわば田中の人脈と行動を最も知る人間だ。太田は4年前に亡くなったが、生前、私の長時間のインタビューに応じてくれていた。

「あの人は昔、東大の空手部にいてね、私も空手をやってたんで先輩に当たるんですよ。その田中が、横浜で神中組っていう会社をやってて金回りがいいというから、カンパを貰いに行った。それが、そもそも始まりですよ。そして神中組が三幸建設に変わって、大学を卒業する時、『お前、これからどうする。よかったら、うちに来んか』って言うんで、まぁ、大学の先輩という感じで、それで入社したんです」

 そして入社早々、太田は社長室に呼ばれて、こう告げられたという。

「すぐに会津若松の猪苗代に行け、って言うんです。共産党が発電所をぶっ壊そうとしてる、東京を暗黒にして革命をやるつもりだ。とにかく行って準備しろ、後で行動隊を送る、と。たしか、5000円貰って行きましたね。行くと、発電所で赤旗立てて朝礼やってるんだ。インターナショナル歌ってね。でも、課長や係長もびびっちゃって何もできない。地元の警察は、『うちも、どうしていいか分かりません』なんて言ってるし」

 若い太田が見たのは共産党の解放区のような光景だったが、そんな中、どうやって電源防衛に取り組んだか。

「まず、発電所の所長に挨拶に行って、社員の名簿を手に入れたんです。二百数十名かのね、それを電産と民同に色分けして下調べから始めました。民同派は最初、3名位しかいなかったね」

 当時の日発の労働組合は日本電気産業労働組合、いわゆる電産だが、その執行部は共産党が支配していた。役員に罵声を浴びせたのは、彼らだ。一方、共産党を排除した民主化同盟派、いわゆる民同派もあり、それを支援して組合を押える戦略だった。

 太田は、橋の工事などを請け負う三幸建設の事務員を装い、情報収集を続け、そうこうする内に東京から行動隊が到着した。

「田中が配下の勇ましいのを送ったんだが、凄い連中がやって来た。復員兵や特攻隊員、大学で空手やっとった学生、あと背中に彫り物入れた本物のヤクザね。皆、発電所で雇いました。工事しながら、会津若松市内で共産党のビラを剥がす。で、こっちのビラを貼ってね。会津再建青年同盟というのも作ってやりました。共産党と殴り合いもしょっちゅうだけど、最後はうちが勝った。そうして1年経った頃、発電所の全員を集めて約28名を指名解雇したんです。普通なら連中も大暴れするが、こっちも周りを押えたからね」

 平気で役員を怒鳴る共産党員も、ヤクザ相手には黙り込むしかなかった。こうして猪苗代は民同派が多数となり、状況は一変するが、ここで疑問なのは電源防衛の資金である。荒くれ男たちの旅費や給与、ビラの製作費など結構な金がかかったはずだ。太田が即座に答える。

「そりゃ、やはり電力会社ですよ。自分が事務主任の時は、仕事で20人使うのに10人ばかり余計に入れるんです。本当の工事費に乗せてね。所長に話をつけて、向こうで出してもらってました。うちでは『第二工事』って呼んでましたね。念のため、腕っぷしが強いのを所長のボディーガードにつけたけど」

 こうした共産党討伐の秘密工作、もとい第二工事のクライマックス、それが1950年8月13日に会津若松で開かれた電源防衛総決起大会だ。市内の公会堂に民同派の組合員ら六百名余りが集まり、東京から駆けつけた田中も激烈な反共演説を行った。

「田中も時々演説しに来たけど、一度、会場の隅から野次が飛んだ事があった。『田中清玄! そんなこと言っても、革命が起きたら、お前は真っ先に銃殺だ!』。そしたら、うちの田中が激怒してね、『じゃ、今すぐここで俺と勝負しろ』って、演壇から降りて殴りかかろうとするんだ。慌てて止めたけど、相手もびびって逃げてっちゃった」

 こうなるとまるで映画や小説の一場面だが、念のため言うと、日発は後に9つに分割され東京電力となる。社長になる木川田一隆を始め、要職に就いた日発、関東配電出身者も多い。

 それが電力の安定供給へ、ヤクザも動員した闘争を黙認、裏帳簿で資金も提供していた。東京電力の社史から、田中や電源防衛隊の記述が丸々抜けているのも無理はない。

 そして皮肉にも、猪苗代の発電所の防衛、その最大の障害になったのが当の日発であった。太田の証言を続ける。

「猪苗代支社長の中山さんは技術屋だけど、マルクスを読んで、共産党の話が分かる。だから連中と互角に話しちゃうんです。平和な時なら、それでいいよ。だけど、あの時は戦争なんだ。それじゃ首切りとか、徹底的なことができない」

 中山俊夫は、早稲田大学の電気工学科を出て日発に入社し、後に東京電力沼津支店長も務めた。根っからのエンジニアだが、太田たちは、彼が現場にいると共産党には勝てないと結論づけた。が、一下請け業者に雇い主を首にする権限などない。そこで田中が取った戦術に、太田は驚愕したという。

「あの時、やって来たのが、田中の共産党時代の仲間です。筋金入りの活動家だ。それが1人で会津の山に籠ってね、ずっとビラを書いてるんだ。架空の団体のね。中山さんがどこそこの芸者と遊んでた、共産党員と会ったとか、それをばら撒いてから本店に乗り込む。支社長を替えろって。それで中山さんは首になった。そりゃあ、凄かったよ、共産党の昔の奴は」

 現代風に言えば、“フェイクニュース”だろうか。

 自分たちに目障りな人間や組織のスキャンダルを流し、社会的に葬ってしまう。今ならビラでなくソーシャルメディアだが、すでに半世紀以上も前、それを自在に駆使していた。流行りで革命を叫ぶのと違う、非合法時代を生き抜いた共産党員の凄さだ。

 こうして猪苗代の発電所には静寂が戻り、電源防衛隊は引き上げた。東京電力にとり、汚れ仕事を受けた田中は恩人であり、その後も両者は関係を維持していく。その激しい気性と行動力が、会社のニーズと一致したのだった。

 だが、こうした気性はいくつもの軋轢も呼び、ついには本人の生命の危機をもたらしてしまう。暴力団員の手で、身に3発の銃弾を受けた「田中清玄狙撃事件」である。(続く)

徳本栄一郎(とくもと・えいいちろう)
英国ロイター通信特派員を経て、ジャーナリストとして活躍。国際政治・経済を主なテーマに取材活動を続けている。ノンフィクションの著書に『エンペラー・ファイル』(文藝春秋)、『田中角栄の悲劇』(光文社)、『1945 日本占領』(新潮社)、小説に『臨界』(新潮社)等がある。

デイリー新潮取材班編集

2021年3月26日掲載

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