「高倉健、菅原文太は大根役者だからこそ輝いた」 名脚本家が明かす対照的な素顔

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 奇しくも銀幕の二大スターが相前後してこの世を去ったのは、2014年のことだが、実は“生まれ年”も同じだったことはあまり知られていない。65年前、同時期にデビューした俳優・高倉健と菅原文太。二人の因縁を脚本家の高田宏治氏(86)が振り返る。

(「週刊新潮」創刊65周年企画「65年目の証言者」より)

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「健さんと文ちゃんは本気で役者になりたくてこの世界に入ったわけじゃない。言わばド素人、持ち味だけで演じた永遠の大根役者です。だから、観客は役柄と本人を同一視して、感情移入できた。一時代を築く大スターになれたんです」

「仁義なき戦い 完結篇」や「三代目襲名」など二人が出演する映画をはじめ、東映で数多くの脚本を手掛けてきた高田氏は語る。

 先に名が売れた高倉は東映ニューフェイス2期生として東映に入社。1956年、24歳の時に「電光空手打ち」でデビューしている。

「健さんは最初、サラリーマンとか平凡な役をこなしていましたが、転機になったのは63年の『人生劇場 飛車角』でした。名を上げて翌年の『日本侠客伝』に抜擢された。任侠映画に出会い、そこから人気を確立していきました」

 一方の菅原も同じく56年、東宝映画「哀愁の街に霧が降る」で銀幕にお目見えした。23歳だった。

 67年、菅原は高倉がすでに任侠映画のスターとして君臨していた東映に移籍。同年、高倉が主演する「網走番外地」にも出演しているが、端役の囚人役でしかなかった。高田氏脚本の「まむしの兄弟」シリーズ(71~75年)で主役を演じ、73年「仁義なき戦い」で東映の看板俳優へ昇りつめた。

 高倉に関しては普段から「義理に生きていた」と高田氏は回想する。

「山口組の田岡一雄組長をモデルに健さんが主演した73年の『山口組三代目』(脚本・村尾昭)と僕が脚本を担当した続編の『三代目襲名』には、シリーズ3作目が予定されていました。しかし、警察にヤクザと癒着していると疑われて公開できなくなり、仕方なく別の作品を書いた。健さんは演じる役が突然変わっても文句も言わずに黙ってやってくれるんです。世話になったプロデューサーの俊藤浩滋(しゅんどうこうじ)さんへの義理を重んじたんですよ」

 演技ではラブシーンに二人の違いが見えたという。

「健さんは生き方そのものがストイックで、ラブシーンは苦手です。しかし、役柄によって本領を発揮します。僕が最高のラブシーンだと思ったのは、『野性の証明』(78年)のラスト、自衛隊員に撃たれた薬師丸ひろ子を健さんが抱きしめる場面です。ベッドの中で男と女が抱き合うわけではないですが、とても美しかった。撮影時、珍しく健さんが僕に頻繁に電話してきてね、“自分に父親を殺された娘との愛をどう演じたらいいか、特にラストシーンは”と聞いてきて、話し合いました。役柄も展開も今までと違ったので不安になっていたんです」

 菅原は真逆だった。

「文ちゃんは平気で赤フン一丁になって、ラブシーンもやる。『新仁義なき戦い 組長最後の日』(76年)では松原智恵子さん演じる妹役と同衾するシーンがありました。難しい場面でもそつなくこなす。不器用な健さんならとてもできません」

“なんとかならない?”

 高田氏は高倉を「存在感」の俳優、と評する。

「健さんの芝居は“顔”なんです。愛してくれた女を捨てて義理に生きる健さんがふっと見せる冷めた顔。あれは誰にも真似できない。健さんなら顔で映画を終わらせることができる。でも、『仁義なき戦い』のように動きで魅せる文ちゃんの場合、“顔”をエンドマークにできません」

 普段の振る舞いについては、

「『網走番外地』の撮影のため札幌に向かう機内で、健さんはスチュワーデスさんにいきなり“雪どうですか”と話しかけていました。でも、スチュワーデスさんが返事に困っていて“もっと気の利いたことを言えばいいのに”と、内心感じていました。飛行機を降りた健さんにファンが気付いても誰も近づかない。痺れるように見ているだけなんです。近寄りがたいオーラがあったんですね」

 かたや菅原の場合は、

「僕と一緒に大阪で飲みに行くと、道中、“おお、文ちゃん!”とヤクザっぽい風貌の人から声をかけられるんです。すると文ちゃんは手を上げて、呼びかけに応えるんですよね。京都のお茶屋さんに文ちゃんを連れていくと、旦那のいる芸者さんが僕に“一晩、文ちゃんなんとかならない?”って聞いてくる。玄人でも惹かれる野性的なセクシーさがありました」

 菅原は75年、「トラック野郎」が大ヒット。高倉は76年に東映から独立し、「任侠」イメージからの脱皮を図る。

「『トラック野郎』で文ちゃんはヤクザではないけど、はみ出し者を演じた。そこは一貫していたんです。健さんは義理に生きる役から『幸福の黄色いハンカチ』(77年)のように幸せを求める普通の役柄に変わっていった。僕が惚れ込んだ健さんではなくなったけど、文ちゃんがとても手の届かない文化勲章をとった。二人ともド素人であればこその銀幕での輝き、彼らのような俳優は出てこないでしょう」

 実に12作品で共演した二人。ただ、その姿はスクリーンの「中」でも「外」でも対照的だった。

週刊新潮 2021年3月4日号掲載

特別記念ワイド「65年目の証言者」最終回 より

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