介護を通して得たのは夫婦間の「熟成」だった──在宅で妻を介護するということ(第20回)

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在宅で妻を看るとは……

 この連載もいよいよ今回が最終回。わずか2年余りの「在宅」経験だが、最後にタイトルの「在宅で妻を介護すること」とはどういうことなのか。頭の中に浮かぶ答えをいくつか出してみたいと思う。

 真っ先に浮かぶのはやはり「忍耐」という言葉だ。これまで女房がやってくれていた家事や雑事が、全部自分に、それも2人分のしかかってくる。自分の時間を奪う。炊事、洗濯、掃除、買物、その他もろもろ。これに耐えねばならない。

 家が仕事場の私は、この世代の男としては家事を手伝う方だと思うが、それでも全部やるとなると大変だ。特に食事の準備・介助、そして食器洗いを中心とした後片付けは、私にとって忍耐以外の何物でもなかった。

 家にいても、ずいぶんこまめに動き回っている自分を感じる。ゆっくりボーッとしている時間がなく、いつも何かせかせか動いている感覚だ。トータルの運動量はかなりのものだと思う。その証拠に、ジョギングやプールに行こうという気持ちは全く起きなくなった。

 在宅で妻を介護するということは、女房お抱えの家政婦になることである。何度も言うが、下の世話などは何のこともない。家のことをするのが一番きつい。下着のありかさえ知らないと豪語するタイプの夫は、躊躇なく施設に預けることをお勧めしたい。

「忍耐」にはもう一つの意味もある。良くなったかと思うと次の壁がまた立ちはだかる。介護は出口の見えない長期戦だ。精神的な忍耐をずっと強いられ、それがじわじわとボディブローのように効いてくる。

 当たり前のことだが、在宅で妻を介護するにはメンタルの強さが必要だ。私も決して強い方ではないが、最愛のペット猫「元気クン」(20歳)がいつもそばにいてくれたから行き詰まることもなくやってこれた。介護には精神安定剤となるペットが必要かもしれない。

 もう一つ思い浮かぶ言葉が「熟成」である。施設に預けていれば、夫婦とはいえ女房が夫に陰部を日常的に晒すことはないだろうし、夫が女房の排泄物を日々処理する必要もない。女房にしてみれば、これ以上もう隠すものは何もない。究極のおまかせ状態で、そこからもう一段深い信頼が生まれる。

 在宅で妻を介護するということは、女房との距離感を限りなく縮めることである。ある日、そのことをストレートに聞いてみた。少し間をおいて、「前も遠い関係ではなかったけど、やっぱりこうなってもっと縮まったかもね」と言ってくれた。

 ワインのような美しい熟成ではないが、「在宅」を始めなければ到達できなかった二人の相互理解の深まりは確かにあると思う。

 看取るつもりで始めた在宅介護。遅々とした歩みで、いまだゴールがどこか、そこまでたどり着けるのかさえも見えてこない。悲観的な私には、本当の苦難は実はこの先にあるように思えてしまう。

 でも、それもまた人生だ。幸いなことにまだ70歳前。身体がもつ限り「在宅」を続けていきたいと思う。この2年余り、その前の5年、いや10年間よりもずっと楽しく充実した日々を過ごしてこれた。

 決してやせ我慢で言うのではない。

 男の介護も悪くない。

「在宅」恐れるに足らず。ただ一つ、天敵の食器洗いを除けば……。

平尾俊郎:1952(昭和27)年横浜市生まれ。明治大学卒業。企業広報誌等の編集を経てフリーライターとして独立。著書に『二十年後 くらしの未来図』ほか。

2021年3月4日掲載

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