「砂を食えるか?」 マラソン「瀬古利彦」を育てた恩師の衝撃的な言葉(小林信也)

小林信也 アスリート列伝 覚醒の時 スポーツ 週刊新潮 2021年2月18日号掲載

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 瀬古利彦は、1980年モスクワ五輪・幻の代表のひとりだ。「出場したらきっと金メダルを獲っていたはず」と信じるファンは大勢いる。

 瀬古が三重県桑名市で生まれたのは56(昭和31)年7月。松坂世代、イチロー世代などと言うが、昭和31年生まれを代表するのは、圧倒的に瀬古利彦だった。筆者は同い年だから、その存在感を実感している。

 私は大学時代、フリスビーに熱中し、毎日代々木公園で練習していた。そこにしばしば瀬古が走って現れた。涼しげな顔で颯爽と走る瀬古を見つけると、公園を散策する誰もが、

「ほら、瀬古だ」「瀬古よ」

 と明るい顔で同行者を突つき、振り返って後ろ姿をずっと見つめる。瀬古が走る道筋に、ドミノ倒しのように彼を振り返る人の波ができる光景をいまも思い出す。そのスピードが心地よかった。瀬古を目撃した誰もが、マラソンランナーの速さに衝撃を受けたのだ。「瀬古だ、速い!」という感嘆が、すれ違う人々をこの上なく幸せで前向きな気持ちに変えた。瀬古は、間違いなくスターだった。

「1月から5月まで、ずっと苦しかったですね」

 瀬古が言った。もう42年も前の話だ。79年12月、旧ソ連がアフガニスタンに侵攻。西側諸国はモスクワ五輪ボイコットを叫び始めた。そして80年5月24日、日本はボイコットを決めた。

「その時はそれほど悔しいと思わなかった。ただ早く決めてほしかった……」

 瀬古は泣かなかった。まだピンと来なかった。23歳。自分には次がある。そして勝てると思ったのだ。が、4年後のロサンゼルス五輪、瀬古は14位に敗れた。次のソウル五輪も9位。ついにメダルに届かなかった。

 瀬古といえば、中村清監督との師弟関係が有名だ。しかし、師を受け入れる伏線が、浪人時代にあったことはあまり知られていない。

革靴を履いて練習

 高校時代、インターハイの800メートル、1500メートル2種目で連覇しながら、瀬古は早稲田を一般受験し、失敗。周囲の勧めで「陸上留学」した。南カリフォルニア大で練習しながらの受験勉強。だが、成果は少なかった。膝を痛めて走れず、体重が10キロ増えた。瀬古は著書『瀬古利彦 マラソンの真髄』にこう記している。

〈八年後に出場することになる、ロサンゼルス・オリンピックのメインスタジアム横の公園のベンチに体をこごめて座り、しくしくと泣いていた。

 孤独だった。帰国できる日を、ただ待つしかなかった。

 このまま自分は終わっていくのかもしれない。

(中略)誰かに教わりたい──心からそう願った。〉

 1浪後、合格を果たして最初の館山合宿に行くと、当時63歳のOB中村清がいた。逸材・瀬古を育てられるのは中村しかいないと白羽の矢が立ったらしい。

 部員たちの前で、中村は思いもかけぬことをやった。

「早稲田の競走部をこんなに弱くしたのは自分たちOBだ。ワシが代表して責任を取る、申し訳ない」

 と言って両手でバシバシ自分の頬を叩きつけた。

「30発くらい、本気で叩くのでビックリしました」

 瀬古は呆気に取られた。そして、砂浜に移動すると、

「この砂を食べたら世界一になれると言ったら、砂を食えるか?」

 中村は手で砂をすくった。

「ワシは食える」

 そう言ってムシャムシャと砂を食べ始めた。瀬古はただ圧倒された。そして中村は瀬古に言った。

「マラソンをやれ。お前なら世界一になれる。ワシの言うとおりにやれるか」

 思わず瀬古は「はい」と答えた。1年間の青春の蹉跌があった。暗いトンネルの出口を求める渇望を中村に揺さぶられた。魂に迫る師との出会いが、瀬古の競技人生の道筋を決めた。

「世界一を目指す」と言ったが、体重が10キロも増えている。膝が痛くて、ジョギングさえできない。中村に与えられた最初の課題は、革靴でアスファルトの道路を歩くことだった。

「リーガルの黒い革靴を履いて何キロも歩く。道路に引いてある白線の上を、真っすぐに姿勢を正して」

 歩きにくい革靴の方が、しっかりと足の裏をつき、正しい歩き方が身につくという中村の理論だった。

「毎日革靴で歩いたら、案外早く膝が治りました」

 初夏には走れるようになった。瀬古の中村への信頼は確かなものとなった。

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