柔道家「ヘーシンク」 日本を愛し、日本に敵視された悲哀(小林信也)

スポーツ 週刊新潮 2020年12月31日・2021年1月7日号掲載

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 胸に刺さって、抜けない言葉がある。

「これは日本が獲ったもうひとつの金メダルです」

 1964年東京五輪、柔道無差別級で優勝したアントン・ヘーシンク(オランダ)が試合後につぶやいた一言だ。

 東京大会で初めて採用された柔道で「4階級制覇」は当然のように日本柔道界の「使命」となった。大会が始まると軽量級で中谷雄英、中量級で岡野功、重量級で猪熊功が金メダルを獲り、日本中を沸かせた。そして最後の無差別級。国民はその年の全日本王者で、高校3年のとき講道館昇段審査で19人抜きの伝説を持つ神永昭夫の勝利を期待した。しかし、柔道関係者たちは敗北を恐れていた。61年、フランス・パリで開かれた世界選手権で日本は初めて覇権を海外選手に奪われた。前回58年大会の優勝者・曾根康治を破ったその男こそ、ヘーシンクだった。

 身長198センチ。179センチの神永と向き合えばそびえ立つ山のようだ。「柔道日本の威信にかけても負けられない」、しかし、ヘーシンクはまさにその威信を揺るがす恐ろしい脅威だった。

階層が低いから

 ヘーシンクは、「生涯の恩人」に見出されるまで、オランダ柔道界では「その他大勢のひとり」に過ぎなかった。アムステルダムから南に30キロのユトレヒトで生まれ、貧しい家に育った。運命の出会いに恵まれた55年、ヘーシンクは20歳。レンガ積みなどをする建設現場の労働者だった。

 道場の片隅で黙々と稽古する顔色の悪いこの青年に目を留めたのは、オランダ柔道連盟の招きで指導に赴いた日本の柔道家・道上伯(みちがみはく)だった。パリを拠点に指導し始めて3年目の夏だった。

 眞神博の労作『ヘーシンクを育てた男』(文藝春秋刊)にはこう綴られている。

〈技といえば内股一本槍で、それもまださほど威力があるようには見えなかった。だが、道上はこの青年のスピードに注目していた。指導次第では、この青年は伸びると直感した。〉

 さらに、〈最大の理由は、飛び抜けて性格が素直だったからだ。〉ともある。

 しかし道上が、この青年を集中的に鍛えようと思う、とオランダ柔道連盟の幹部に伝えたとき、全員に反対された。再び、眞神の著書から引用させてもらう。

〈「彼は階層が低いからだめです」

 ヨーロッパはまだまだ階級社会だったのである。(中略)階層が低いからといわれて道上は、

「それならなおさらのこと彼を強くしよう」

 と協会(ママ)の幹部を説いた。彼が成功すれば、より多くの青年に希望と勇気を与え、柔道人口は一気に増えるに違いないと考えたのである。(中略)

「一丸となって優秀な選手を育てよう。それには彼がもっとも適任だ。わたしは本物の柔道をオランダの選手に教えたいのだ」〉

 道上の指導は容赦なかった。インターバルを採り入れたランニングを重視し、自転車、水泳、レスリング、サッカーなど、柔道以外の競技も経験させて、力だけでなく、反射神経や関節の柔軟で強靭な対応力を身につけさせた。鉄棒に顎を引っ掛けて首の筋肉を鍛えるなど、独自のウエイトトレーニングも課した。

 ヘーシンクは道上の指導を全力で受け入れた。週末は山に登り、伐採された大木を転がすなど、自然の中で身体を鍛えた。互いに敬い、認めあう師弟関係が育まれ、ヘーシンクは見違えるように逞しくなった。

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