急逝の東映「岡田会長」第一発見者の女性プロデューサーとは 会長と自宅で打ち合わせ中に

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 日本映画の良き時代を支えた映画人が、また一人この世を去った。東映グループ会長の岡田裕介氏(本名・岡田剛)である。岡田氏が自宅で倒れたのは、2020年11月18日のこと。その場に居合わせ、救急車を呼んだ意外な人とは。

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 東映の関係者が言う。

「その日、岡田さんは午後6時ごろに東京・杉並区の自宅に戻り、ビデオをチェックしていたそうです。当日までは特段、具合が悪そうな様子はなく、前週にも東京商工会議所の会合に顔を出していました。ところが、途中から急に“暑い”と言いだして立っていられなくなったそうです」

 病院に担ぎ込まれたものの、手当ての甲斐なく10時58分に逝去。急性大動脈解離だった。享年71。

 岡田氏のことを語るとき、その経歴の特異さに触れないわけにはいかない。父親は東映の名物経営者・岡田茂である。慶応大学在学中にスカウトされ「赤頭巾ちゃん気をつけて」「にっぽん三銃士」「火宅の人」などの映画に出演。プロデューサーに転じると、02年に東映社長に就任する(14年よりグループ会長)。

 吉永小百合の熱烈なファンを自任し、現在製作中の主演映画「いのちの停車場」(21年公開)では、自ら製作総指揮にあたっていた。家族は妹が2人と、年老いた母親がいるが、本人はずっと独身。その岡田氏が自宅で倒れた際、すぐに救急車を呼んだ人物がいる。家族ではない。東映の女性スタッフだ。

「違います!」

 先の東映関係者が続ける。

「救急車を呼んだのは冨永理生子さんというプロデューサーです。年齢は60歳前後。慶応大学を出て、製作プロダクションに勤めたのち、東映の仕事をするようになりました。語学力があるので通訳のようなことをやっていましたが、岡田さんが東京撮影所長のときに、気に入られて映画のプロデュースも手掛けるようになったのです」

 社内でも冨永女史は別格扱いだったようだ。

「岡田さんが参加する会議では、最後に“冨永だけ残れ”と言われている場面が何回か目撃されていますし、岡田さんが毎年暮れに観に行っている松田聖子さんのディナーショーには、冨永さんもご一緒していました。それもあって、幹部社員も彼女には気を使っていましたね」

 はた目には、会長とプロデューサー以上の関係に見えてしまうのだが、この日、なぜ彼女は岡田氏の家にいたのだろうか。

 東映前社長の多田憲之相談役は「(岡田氏が倒れた当日は)自宅で社員と打ち合わせをしていた」と経済誌に明かしている。また、岡田氏の長妹の高木美也子氏(東京通信大学教授)に聞くと、

「そうですね。(冨永女史と)仕事でお話をしている時に(倒れた)と聞いています」

 仕事熱心な経営者であれば部下を家に呼ぶこともあるのかもしれない。ところが、当の冨永氏に問うと、

「いえ、違います。違います!」

 と懸命に否定するばかり。いち早く救急車を呼んだのなら、機転の利くプロデューサーだと褒めてもらえそうなものだが。

週刊新潮 2020年12月31日・2021年1月7日号掲載

ワイド特集「角突き合いの女マタドール」より

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