「元近鉄エース」は3球団で全て優勝…「渡り鳥選手」が歩んだそれぞれの“野球人生”

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 新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けた2020年のプロ野球界。12月に入って、移籍に関する話題がスポーツ紙上を騒がせている。移籍した選手がどんな活躍を見せてくれるのか、ファンの期待は高まるが、過去に他球団への移籍を繰り返した選手はどのような野球人生を探ると、人生模様が見えてくる。

 プロ野球史上、最も数多くの球団を渡り歩いたのが、計8球団に在籍し、“ジプシー”の異名をとった181センチの長身左腕・後藤修だ。1952年に磐田南高から松竹に入団し、翌53年、チームが大洋と合併して洋松に変わるが、この間、後藤は一度も1軍登板のないまま、54年オフに自由契約になった。

 最初にトンボのテストを受けたが、内定を貰いながら、テスト生たちに軍隊式の二列縦隊の行進を強要した飯塚睦夫球団代表に抗議し、自ら入団辞退する硬骨漢ぶりを発揮している。その後、55年2月に東映のテストに合格した後藤は、先発3試合を含む5試合に登板したが、たった1年で自由契約に。翌56年は、大映で33試合に登板し、6勝12敗と自己最高の成績を残すも、チームが高橋(旧トンボ)と合併したことから、1年限りで巨人へ。

 巨人1年目の57年6月11日の国鉄戦、2失点完投で移籍後初勝利を挙げるが、10月23日の中日戦では、0対1の6回から先発・馬場正平(後のジャイアント馬場)をリリーフし、7回途中まで5失点と炎上した結果、杉下茂に通算200勝目をプレゼントしている。

 巨人退団後も、59年に近鉄、61年に南海、63年に西鉄と“ジャーニーマン”の日々が続く。西鉄を1年で戦力外になると、9球団目の阪急のテストを受けたが、西本幸雄監督から「ストレートが捕手の前でお辞儀している」と言われ、不合格になったのを機に現役引退した。

 その後、週刊文春に「ジプシー球談」を連載するなど、野球評論家として活躍。当時は珍しかったゴルフのプロコーチに転身し、尾崎将司や中島常幸らを指導した。

 江夏豊(阪神→南海→広島→日本ハム→西武)、加藤英司(阪急→広島→近鉄→巨人→南海)、光山英和(近鉄→中日→巨人→ロッテ→横浜)らも5球団を渡り歩いているので、ジャーニーマンの“有資格者”と言えるだろう。

 トレードのたびに、数々の勲章を手にしたラッキーマンが、のべ5球団に在籍し、18年間で通算121勝を挙げた野村収だ。駒大からドラフト1位で大洋入団後、3年間で通算5勝と伸び悩んだ野村は、72年に江藤慎一との交換トレードでロッテに移籍すると、いきなりチーム最多の14勝と確変を遂げる。

 さらに74年、金田留広との交換トレードで日本ハムに移ると、75年に11勝3敗で初タイトルとなる最高勝率を獲得。1対2の交換トレードで古巣・大洋に復帰した78年にも、17勝を挙げ、最多勝とカムバック賞に輝いた。

 そして83年、加藤博一との交換トレードで阪神に移籍すると、同年5月15日の大洋戦で、史上初の全12球団勝利を達成。85年にはプロ17年目で初のリーグ優勝と日本一の美酒を味わった。計四度にわたるトレードがすべて吉と出たのは、長いトレード史の中でも稀有な例である。

 ドラフトで指名が競合した3球団すべてに在籍し、いずれのチームでも優勝を経験したのが、阿波野秀幸だ。86年のドラフトで大学ナンバーワン左腕と注目された亜大のエースは、巨人、大洋、近鉄3球団の競合1位指名となり、抽選の結果、近鉄が交渉権を得た。

 近鉄のエースとなった阿波野は、89年にリーグ最多の19勝を挙げ、9年ぶりVの立役者に。95年に香田勲男との交換トレードで巨人に移籍すると、翌96年、リリーフ左腕4人から成る“レフティーズ”の一人として長嶋茂雄監督の“メーク・ドラマ”Vに貢献した。

 さらに98年、永池恭男との交換トレードで横浜へ。主に中継ぎとして自己最多の50試合に登板して38年ぶりのリーグ優勝の名脇役を演じた阿波野は、西武との日本シリーズでも、第6戦の8回からリリーフし、日本一決定の勝利投手になった。最後に在籍したドラフト当時の意中の球団で、野球人生で最高の栄誉を味わえたのも、不思議な因縁である。

 阿波野とは逆に、在籍チームが移籍後も含めて7年連続最下位と不運続きだったのが、塩谷和彦だ。阪神にドラフト6位で指名され、93年からプロの道を歩み始めた塩谷は、95年に1軍初出場をはたすが、チームは低迷期の真っただ中。97年の5位を除き、01年まで最下位に沈みっぱなしだった。

 02年に斉藤秀光との交換トレードでオリックスに移籍したが、古巣の阪神が03年に優勝したのに対し、オリックスは04年まで3年連続最下位となり、阪神時代の98年から7年連続最下位という“負の連鎖”に泣く。

 近鉄と合併した翌05年、オリックスはようやく最下位を脱出した(4位)が、塩谷は皮肉にも同年限りで戦力外となり、実働11年間で一度もAクラスを味わうことなく、現役を引退した。

 一方、FAでチームを飛び出した者同士が、交換トレードという形で、元の鞘に収まる珍事が起きたのが、09年の村松有人と大村直之だ。村松はダイエー時代の04年にオリックス、大村は所属球団の近鉄がオリックスと合併した05年にソフトバンクにそれぞれFA移籍した。

 だが、08年オフに現役時代から村松の実力を買っていた秋山幸二がソフトバンクの新監督に就任すると、「若い選手の手本にしたい」と獲得に動く。これに対し、オリックスも、対右投手用の打線強化と外野陣の活性化目的で大村を交換要員に希望したことから、球団名こそ変わったものの、“元サヤトレード”が成立した。だが、2人とも出戻り後は2年プレーしただけで引退しているので、あまり成功したとは言えない。

 出戻りといえば、巨人時代の13年オフ、片岡治大の人的補償で西武に放出された脇谷亮太が、15年にFA権を行使して巨人復帰したことも記憶に新しい。人的補償選手のFA移籍は、もちろん史上初の珍事だ。

 このように過去の移籍には様々な出来事があった……2021年のシーズンはファンにどんなドラマを見せてくれるのだろうか、今から球春が楽しみである。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2020」上・下巻(野球文明叢書)

週刊新潮WEB取材班編集

2020年12月31日掲載

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