「誰かのせい」にすると心地がいい 不必要に傷つかない生き方(古市憲寿)

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 国際調査によれば日本の若者は自己肯定感が低いという。若者に限らずとも「自分に自信がない」という人は少なくないだろう。

 しかし自己肯定感というのは、自分に対する期待の高さと表裏一体だと思う。「自分に自信がない」と言う人は「自分に期待している」人でもあるのだ。

 本当だったらもっと上手にできた。今回はベストを尽くせなかった。もう少し頑張れたはずだ。やっぱり私はだめなんだ。そのような言い訳を聞く度に「本当?」と疑ってしまう。

 僕はあまり自分に期待していない。他人から評価される仕事もあるし、批判される言動もあるが、いつも「こんなものだろう」と思って受け止めている。

 何かに失敗したとして、時間を戻せば上手にやれるかというと、多分そうはいかない。誰でもコンディションを一定に保つのは難しいから、うまくいく時といかない時はあるだろう。

 だけど人は急には変わらない。小手先だけで人生を修正しようとしても、結局は似たようなところで躓(つまず)いてしまうものだと思う。

 目標を立てるというのも嫌いだ。目標というくらいだから、それはまだ「自分のもの」ではない。それにもかかわらず、達成できないと、なぜか自分が損なわれた気がする。ただ何も手に入れられず、何も失わなかったというだけなのに。おかしな話だ。

 不必要に傷つかないためには、できるだけ自分のせいにしないというのも大事だと思っている。何かアクシデントが起こった時、その原因をどう帰責させるか。裁判や保険の査定では厳密な検証が必要だろうが、日常生活では「誰かのせい」くらいに考えておいたほうが気楽でいい。

 僕の場合、「自分のせい」にするのは最後だ。

 たとえば、本当は届いているはずの郵便物が、家に見当たらなかったとする。その場合、僕はまず先方を疑って、「きちんと送ってくれましたか」と確認する。それが確認できたら次は日本郵政を疑う。いくら郵便事故率が極めて低い日本でも間違いはゼロではない。

 そして最後の最後で、自宅を探す。そうすると大抵、見つかる。他人からしたらいい迷惑だろうが、こちらの精神衛生上、心地がいい。

 もちろん「自分のせい」と思ったほうが楽だという人もいるだろう。物事の責任を追及していくと、「社会」や「時代」「遺伝」といった、自分では手に負えないような大きな存在に行き着いてしまう。「時代のせい」と思って心が晴れるならいいが、その次のアクションが難しい。だったら「自分のせい」と納得してしまったほうが対処はしやすい。

 だけどその時も、「自分」を高く見積もり過ぎないほうがいい。この世界を生きていく上で、自分一人の力でできることは知れている。独裁者でさえ腹心の動向や世論には気を遣うものだ。そういえば自信満々に「死ぬこと以外かすり傷」と言っていた編集者も「かすり傷でも致命傷」になることを身を以て示していた。自分への期待はほどほどに。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2020年11月5日号掲載

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