「韓国」最大の繁華街は、誕生・再開発・発展・衰退も「日本」に依存する

国際 韓国・北朝鮮

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商店主などの反発で中止された官製「反日デモ」

 韓国を代表する繁華街・明洞は日本人が作った街である。朝鮮王朝は1880年代、首都漢城(後の京城、現ソウル)の外国人居住地を定め、現在の忠武路を日本人居住地に指定したが、金融や買い物など利便性が悪く、日本人は居住地の本町と隣接する明治町に商店街を作り上げた。戦後、明治町は明洞(ミョンドン)、本町は忠武路(チュンムロ)となり、乙支路(ウルチロ)と合わせて、韓国最大の繁華街を形成している。

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 1945年8月、日本人が撤退すると、新生韓国政府は明洞地区の商店街を接収、文化と芸術の中心地として発展した。

 総督府鉄道が建てた朝鮮ホテルは、戦後、米軍の司令部となり、1961年に韓国政府に返還された後、82年サムスングループが払い下げを受けた。現在のウェスティン朝鮮ホテルである。

 半島ホテルも米軍が収用し、60年代から国際観光公社の所有となった後、74年にロッテ創業者の故・重光武雄こと辛格浩が引き受けて、ロッテホテルを新築した。

 丁子屋百貨店は、現在はロッテヤングプラザ、三越百貨店は新世界百貨店本店として営業を続けている。また、三中井呉服店は現在、面影はないが跡地に服飾百貨店の明洞ミリオレが建っている。

 韓国政府は朝鮮戦争後の1956年から明洞地区の再開発に着手、70年代から日本資本による明洞の街作りが再開した。

ダイエーの中内㓛氏に相談したが断られて…

 韓国政府はソウル五輪に向けて、ソウルを訪れる外国人にグローバルスタンダードのサービスを提供するため、海外の韓国系企業や資産家に支援を求め、在日韓国人企業等が呼応した。

 1971年、在日韓国人資本によるソウルロイヤルホテルが開業し、79年には日本企業がサムスングループの新羅ホテルに出資、半島ホテルの跡地にロッテホテルが開業した。

 また、明洞ではないが、1978年には南山に日韓合弁のハイアット・リージェンシー・ソウルが開業した。

 1998年の通貨危機の際にハイアットに売却され、グランドハイアットソウルと名を変えて現在に至っている。

 ソウル五輪を機に明洞に最大の投資をした在日系企業は、いうまでもなくロッテである。

 ロッテの創業者、重光武雄氏(韓国名・辛格浩)は、1973年、国際観光公社から半島ホテルと国立中央図書館の敷地を引き受けて、ロッテホテルと付属ショッピングセンターの建設に着手した。

 当初は40階建以上のホテル建設を計画し、当時の金鍾泌首相が支援したが、大統領警護室長が「大統領府を見下ろす」として反対したため37階建になった。

 36階からでも大統領府を見下ろせるので意味はないのだが、ロッテに特恵を認めるのかという論議があったという。

 重光武雄氏はロッテショッピングセンターの開業にあたり、ダイエーの中内㓛氏に相談したが断られて、小倉玉屋常務営業本部長だった秋山英一氏をスカウトした。

 秋山氏も断るつもりだったが、重光会長の招待を受けてソウルを視察した際、街に溢れる活気に驚きながらも、流行の先端を行くファッションリーダーが不在であり、また日本とは全く異なる商習慣を見て、韓国における本格的な百貨店経営に挑戦したいと、韓国ロッテの百貨店事業本部長を引き受けた。

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