体操「チャスラフスカ」を覚醒させた贈り物は日本刀? 日本を愛し愛された人生とは(小林信也)

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 1964年の東京五輪で、多くの日本人を魅了した象徴的な外国人選手が「体操の女王」「名花」と謳われたベラ・チャスラフスカ(旧チェコスロバキア)だ。

 個人総合、種目別の平均台と跳馬、計3個の金メダルを獲得したベラはその美貌と眩(まばゆ)さで日本人の心を惹きつけた。女性美あふれる肢体を赤いレオタードに包み、金髪で優雅に躍動する。56年前の日本人にとっては桁外れに刺激的で、常識を凌駕する光景だった。しかし健康的。ベラはスポーツを通して日本の社会通念を打破した女性だ。帰国までにトラック1台分以上のプレゼントが届いたという。

 だが、人生の暗転が突然やってくる。4年後の68年1月、「プラハの春」と呼ばれる政変が起き、祖国は自由改革路線を歩み始めたのもつかの間、メキシコ五輪を2カ月後に控えた8月20日、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍の戦車の列がプラハに侵攻した。自由化の流れを放置できないソ連の強硬な動き。自由化政策に賛同する「二千語宣言」に署名していたベラは、撤回を求められたが応じず、姿を隠さねばならなかった。

 身の危険を顧みずメキシコに渡ったベラは、山中での逃亡生活で練習ができなかったが、個人総合を含む4個の金メダルに輝いた。憎悪の対象であるソ連のライバルを破ったベラは帰国後、英雄として迎えられた。だが、翌年には行動を規制され、20年もの間、公的な活動を許されなかった。ベラは素性を隠し、掃除人の仕事で生き延びた。

“山下跳び”を伝授

 その苦難の人生は、ノンフィクション作家・長田渚左の労作『桜色の魂 チャスラフスカはなぜ日本人を50年も愛したのか』(集英社)に詳述されている。幾度もベラと会い、チェコの自宅も訪ねて長田が著した同書によれば、ベラは二つの大切な宝を日本人から贈られ、それが彼女の人生を支えたと言っても過言ではないという。

 ひとつは東京五輪の体操男子個人総合で金メダルを獲得した日本のエース遠藤幸雄から伝授された跳馬の“山下跳び”だ。これは選手としての覚醒を導いた。

 東京五輪出場を目指していた18歳のベラは、60年ローマ五輪で金メダルを獲った日本男子体操陣に心を奪われた。中でも、遠藤の切れ味鋭い美しい演技は格別だった。ドイツ語を学んでいた遠藤とは練習中に会話を交わすようになり、友情を育んだ。

 当時、日本の山下治広が生み出した山下跳びが一世を風靡していた。跳馬の上で前転した後、体をV字に折り、ジャックナイフと呼ばれる体勢を取る。体の柔らかい女子選手には不向きとされる中、この技を習得したいと言うベラの意志に打たれ、遠藤は山下跳びを教えた。女性初の山下跳び成功がベラに金メダルをもたらした。

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