夏の甲子園「中村順司氏」が今も忘れない名勝負 1983年「PL学園VS横浜商」

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名将が選んだ試合は?

 甲子園のない夏が到来した。そこで今回は高校野球ファンに向けて、甲子園で春夏6回の優勝、春夏通算58勝を誇るPL学園(大阪)の名将・中村順司元監督に過去の夏の甲子園大会の試合からご自身が忘れられない名勝負1試合を選んでもらい、語り尽くしていただく。

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 桑田真澄&清原和博(ともに元・読売など)の“KKコンビ”の育ての親としても知られる偉大な名将が選んだ1試合とは?

――監督が選ばれた試合は1983年、第65回大会から、PL学園の試合なんですが、そもそもこのときの夏の甲子園は蔦文也監督率いる池田(徳島)の大記録がかかっていた大会でした。高校野球史上初の夏・春・夏の3連覇です。

 そしてその池田をどのチームが止めるか、にも注目が集まりました。当時の新聞を見ると、池田以外にもAランク評価のチームが6校もあって、そのどこが優勝してもおかしくないと言われていました。そんななかで、PL学園は大会前に全く下馬評には挙がっていませんでした。

中村順司氏(以下、中村):あのときは投打の中心がまだ1年生の桑田と清原だったでしょ。当然、実力的にウチがつけ入る隙はないだろうと。入場行進の順番が30番目くらいだから、チーム力的にも大会出場校中30位じゃないですかっていう話をした記憶がありますよ(笑)。

「勝てると思ってなかった」

――それに監督としても初めての夏の甲子園でしたし。

中村:僕がPLの監督になってから1年目の81年と2年目の82年の春の選抜を連覇したんです。ところが、どちらもその年の夏は予選で負けたんですよ。

 そして3年目となる83年の春の選抜に出られずにいたなかで予選を勝ち抜いたと。2年間続けて選抜には出場できたけど、逆に夏は行けてなかった分、喜びはひとしおでしたね。

――あのときのPLは前評判は確かに低かったですが、個人的には“PL=甲子園では無類の強さを発揮する”というイメージがありました。事実、1戦1戦勝ち上がっていきましたし。

 初戦の所沢商(埼玉)で桑田さんが6-2で完投勝利したのを皮切りに、2回戦の中津工(現・中津東=大分)戦は桑田さんが7-0で完封勝利、続く3回戦は選抜ベスト4の東海大一(現・東海大静岡翔洋=静岡)との一戦でしたが、6-2での快勝となりました。

 準々決勝は名門の高知商(高知)に10-9、そして準決勝があの池田との世紀の一戦でした。戦前の下馬評では圧倒的にPLが不利でしたが、なんと7-0の大差で勝利することになるワケです。

中村:池田との試合が終了したときには、「ああ、勝ったぁ~~ようここまで勝ったなぁ~~」っていう思いでしたよ。のちにこのときの3年生の一人に「俺は勝てると思ってなかったよ」っていう話をしたぐらいに、池田とPLにはかなりの実力差があったと思っていますから。

夏に勝たなきゃ意味がない?

――さて、いよいよ監督が選ばれた試合、決勝戦です。実は対戦相手の横浜商(神奈川)とは前年の春の選抜の準決勝で対戦して同じ三浦将明(元・中日)投手から3-2でサヨナラ勝ちを収めています。

中村:そのときは幸運にも勝てることができましたが、三浦くんはこの春の選抜の準優勝投手ですからね。大きく縦に割れるカーブとストレートとのコンビネーション武器にしていて、もうそれは簡単に打てるような投手ではないと。だからそのときの僕の中には全然、優勝っていう文字はなかったですね。

――高校野球ファンの中には「春勝っても夏に勝たなきゃ意味がない」って言う人がいますよね。すでにそのとき春の選抜は2度優勝していましたが、やっぱり監督の心の中には期するものがあったんでしょうか?

中村:実は似たようなことを言われていました。81年と82年の選抜を連覇しても、「中村くん、高校野球は夏だぜ」って。だから「選抜で優勝しても夏、甲子園に出られなかったら」……って、そんな感じの皮肉を言われました。でも、それで逆に気負っても仕方ないので、僕はもう淡々と試合をしようと思っていました。

――あの試合では1回表と2回表に横浜商が先制のチャンスを作るんですが、それを活かせませんでした。

中村:2番打者の信賀(正喜)くんにセンター前ヒットを打たれてそこから、二盗、三盗を決められるんですよ。その三盗をしたときにね、桑田がセットポジションに入って、1度、二塁を見て、顔を本塁に戻したときに、迷わず走ったんですよ。で、これはもうクセを盗まれているなと。

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