嘱託殺人被害者の知人女性が独白する「生き地獄」 安楽死はどう議論すべきか

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一人称の視点

 京都府警は犯人逮捕に際し、東海大学医学部付属病院で起きた安楽死事件に対する1995年の横浜地裁判決を考慮している。この地裁判決は、〈耐えがたい肉体的苦痛がある〉〈死期が迫っている〉〈他に苦痛を緩和する方法がない〉〈患者の明らかな意思表示がある〉の4要件を満たせば、日本では基本的に認められない“積極的安楽死”が例外的に許容されるとした。

 だが、法律でも厚労省のガイドラインでも最高裁判例でもない、四半世紀前の地裁判決だけが安楽死の“基準”となっている点には、やはり疑問が残る。

「日本では安楽死どころか、尊厳死すら認められていません。ガラパゴス化した終末期議論を打開しないと同様の事件が繰り返されてしまう」

 危機感を募らせるのは、日本尊厳死協会の長尾和宏副理事長である。

 ここで言う安楽死とは医師が致死薬を患者に投与する“積極的安楽死”のことで、患者の意思に基づいて延命治療を控える“消極的安楽死”、いわゆる尊厳死とは全く別物である。

「今回の事件は嘱託殺人であり、言語道断です。しかし、いまの私たちに必要なのは被害女性の“一人称”の視点に立つこと。林さんには親も主治医もケアマネジャーもいましたが、それでも死を望んで外部に助けを求めました。どうか彼女と同じ立場で考えてほしい。そうすることでしか、この問題に関する議論を成熟させることはできません」(同)

『安楽死で死なせてください』の著者である、脚本家の橋田壽賀子氏も、

「国が法整備をせず、曖昧にしてきたせいで今回のような事件が起きてしまった。たとえば本人と家族の意思を確認し、医者や弁護士などの審査を経て許可が下りれば安楽死が認められる。そうした選択肢も考慮すべきじゃないでしょうか」

 他方、先の嶋守氏はこう指摘する。

「難病患者の死ぬ権利についての議論には不安を覚えます。生きるための励ましや社会支援がおろそかにならないか心配だからです。難病患者でも生きられる環境を整えることが大切だと思います」

 無論、命という究極のテーマについて誰もが納得する答えを見出すのは難しい。ましてや現実の法整備となれば、困難を極めるだろう。しかし、安楽死をタブー視して議論すら封じる社会では、いずれまた悲惨な事件が繰り返されかねない。問題への理解を深め、血の通った議論を進める努力は必要だろう。第二、第三のドクターキリコを出さないためにも。

週刊新潮 2020年8月6日号掲載

特集「スイスで『安楽死契約』の日本人女性が激白! 嘱託殺人の被害者が私に吐露した『生き地獄』」より

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