「水曜日のダウンタウン」で注目 青ヶ島の人たちの選挙権が剥奪されていた理由

国内 社会 2020年7月2日掲載

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島から出たことがない仙人

 人気バラエティ番組「水曜日のダウンタウン」(TBS系)には、伝説的に語り継がれる回がいくつもある。「島から一歩も出たことない人」を探した回はその代表格だろう。これだけ交通機関が発達した現代において、いかに離島の島民だろうと、ある程度の年齢になれば一度くらいは島外に出向いたことがあるはず……そんな視聴者の予想を覆したのが、番組スタッフが東京都・青ヶ島で遭遇した“仙人”である。

 地元の人の情報をもとに、スタッフは男性のもとを訪ねる。が、目の前に現れた白髪で白い髭を長く伸ばした高齢男性は、スタッフに対して強い警戒心を示し、「この野郎」とばかりに金槌を片手に追いかけて来るのだ。顔にはモザイクもかかっておらず、令和の時代のテレビとは思えぬ衝撃映像は、大きな波紋を呼んだ。

 その後、取材を進めるうちに落ち着いてきた“仙人”は、父母の面倒を見なければいけないこともあって、高齢となるまで島から一歩も出たことがない旨をとつとつと語る。

 追いかけて来た姿の衝撃に加えて、そのような人物が今なおいることに驚きを感じた視聴者も多いことだろう。

 しかし、この青ヶ島の事情を知る人にとっては、そこまでの驚きはなかったかもしれない。伊豆諸島の孤島である青ヶ島の住民は、戦後しばらくの間、何と1956年まで選挙権が剥奪されていたという歴史を持つのである。

「剥奪」は決して比喩ではない。公職選挙法には、このような条文があったのだ。

「東京都八丈支庁管内青ヶ島村においては、衆議院議員、参議院議員、東京都の議会の議員若しくは長または教育委員会の委員の選挙は、当分の間、行わない」

 なぜこのようなことが許されたのか。選挙についての珍しいエピソードを集めた『ヤバい選挙』(宮澤暁・著)をもとに、絶海の孤島の不幸な歴史を見てみよう(以下、引用はすべて同書より)

ぼくらは牛やブタの子じゃない

 青ヶ島は東京都に属する。とはいえ、東京湾から358キロ南、一番近い八丈島からでも68キロある。緯度でいえば宮崎県とほぼ同じ。人口は170人(村のHPより)。海岸すべてが数十メートルの断崖絶壁という地形である。今でこそ整備された港やヘリポートがあるが、かつては小さなはしけ程度が接岸するだけの小さな港しかなかった。

 このはしけを使って、沖合に停泊した大きな船と島を結んでいたのである。しかし時化(しけ)や悪天候があると、完全にこうしたアクセスも閉ざされる。

 1950年代においても、5カ月以上も島外と人や物のやり取りがなかったこともあった。

「1955年には様々な物資が欠乏したため、東京都が物資を載せた飛行機を飛ばして、当面の食糧や石油といった生活物資をパラシュートで島に投下していることが記録されています。

 そして選挙権が制限されていた最大の理由は、外部との安定した通信自体が極めて困難な環境にあったことが挙げられます。選挙権が制限されていた当時、青ヶ島と島外との通信手段は日に数度、且つ短時間しかできない不安定な無線電話のみでした。これは島外から来る船の運航にも支障をきたしており、船が海の状況を青ヶ島に尋ねても、返答がその日のうちに返ってこないというレベルであったのです」

 電話などが通じていれば、離れていても現地での開票結果を伝えることができる。しかし、そういうこともできない環境にあったのだ。

 戦後ですらこうなのだから、戦前も島民が選挙に行くことなどは至難の業。法律でこそ排除されていなかったものの、かなりの制限が加えられていた。

 しかし、戦後に入ってもなお選挙権が無いというのは憲法違反に等しい。当然、これに島民は不満を抱き、村長はたびたび請願も行った。当時の島の中学生の作文には「いくら不便なところでも国民は国民だ。なんとかしてくれないだろうか。口ばっかりの民主主義はほしくない。ぼくはくやしい。かなしい」「青ヶ島の人もやっぱり人の子だ。牛やブタの子じゃない」と悲痛な叫びが綴られている。

1956年に初選挙

 もちろん国としても意地悪で選挙権を剥奪していたわけではない。しかしあまりにも青ヶ島は遠く、謎多き存在だった。

「世間的にも、青ヶ島は完全に秘境扱いされていました。『こういう島らしい』という真偽不明の伝聞形式の情報が多く、当時の報道では『20人の巫女が麦まきまで支配しているらしい』だの『食器も使わないので、戦後進駐してきたアメリカ兵が持ってきた栓抜きを島民が知らなかったらしい』だの、完全に外部と隔絶された謎の島のような噂が堂々と取り上げられていたのです。

 1954年、国や都が学術調査団を結成し、青ヶ島の調査を行うことになりました。調査団は直接青ヶ島におもむいて、人類学や民俗学、優生学、遺伝学などの観点から調査を行おうとしたのです。この学術調査団さえも、謎の秘境の島扱いをしていた証拠として、当初、全島民の裸の写真を様々な角度から撮影しようと計画していたという話があります。ただしこれは島民の反発を招くとして、中止されました」

 この調査団の強い提案により、安定的な無線電話の導入が決められる。もともと計画はあったものの、1956年7月の参院選を想定して、その前に前倒しで導入することが決定したのだ。本来、投票用紙は規定のものでなければならないし、開票結果の書類も早く送らねばならないが、そのあたりは状況を鑑みて青ヶ島に限っては、村内で作った投票用紙でもよく、結果を電話報告するのでもよいということになった。

 こうしてようやく、その年の参議院選挙から青ヶ島の人たちも選挙権を行使できるようになる。終戦から実に11年後のことだ。

「八丈島から木製の新しい投票箱を積んだ船が青ヶ島の沖合に到着し、青ヶ島村の選挙管理委員自らが漕ぐはしけに投票箱を載せて、青ヶ島に無事上陸。そして、上陸した投票箱は牛の背中に載せられて、投票所である村役場に搬入されました」

 選挙に関する書類は飛行機からパラシュートで投下されたという。その時の投票率は77%で、東京都全体の約45%を大きく上回った。

『ヤバい選挙』著者の宮澤さんの趣味は、日本国内の選挙にまつわる珍しい事例を収集することだという。いわば選挙マニアで、同書はその研究の成果である。

 青ヶ島の事例について改めて、選挙マニアとしての立場からコメントをしてもらった。

「一定の年齢になれば選挙権があって当たり前と考える方も多いことでしょう。しかし、青ヶ島の事例は決して“当たり前”ではないことを示しています。若年層の低投票率が問題になっていますが、『牛やブタじゃない』という島の中学生の悲痛な叫びに思いを馳せていただければ、と思います」

デイリー新潮編集部