黒いカレーで60年「神保町 キッチン南海」が閉店 90才社長が語る“我が人生”

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チェーン店はない

――「キッチン南海」の南海は、プロ野球の南海ホークスに由来する、というのは知る人ぞ知る話だ。社長は関西出身なのだろうか?

南山:父親は長野の松本出身の大工でね、それが東京に引っ越してきてから、僕が生まれた。だから東京生まれの東京育ち。でもアンチ・ジャイアンツだった。だからといってホークスファンというわけでもない。僕はホークスの鶴岡一人監督が好きだったの。戦後の水原(茂)、三原(脩)と並ぶ三大監督の一人だよ。彼はいろんな選手を育てたんだけど、人の使い方が巧かった。選手を褒めるときにも、直接褒めずに、人を介して褒めたという。もちろん知り合いじゃないけどね、そういうところを学びたいと思って店名にしたんだ。

――キッチン南海は、現在は神保町以外にも池袋、早稲田、下北沢、梅ヶ丘、上井草などなど都内各地、長野県松本市にも店舗がある。いずれもホークスカラーの緑色の看板が目印だが、チェーンではない。

南山:のれん分けっていうの? うちで最低10年修行して、お金を貯めて、「キッチン南海」として独立したいと言ってきたら、そうさせてるだけ。これまで20人くらい独立したかな。そこからさらに独立した人もいるから、何軒あるのか……。特に契約書を交わしたこともないけど、カレーが1500円なんてのは、うちの看板では出すなというのが条件だね。

――どこの「キッチン南海」もリーズナブルだが、真っ黒カレーでない店もあれば、手打ちうどんを出す店もあるのは、厳しい条件がないためのようだ。ところで、社長自身はどんな修行をしてきたのだろうか。

南山:僕がね、「キッチン南海」という店を出したのが30歳の時。それまではね、いろいろやったんだよ。16歳で終戦だから、幸いにも戦争には行ってない。ただ、中学1年の時はちゃんと授業があったけど、2年、3年は軍需工場へ出されていたからろくに勉強はできなかった。それで戦後になって、東京物理学校(現・東京理科大学)に入学した。当時は卒業は難しいけど、誰でも入れるという学校だったからね。でも、中学でろくに勉強していないやつが授業について行けるわけもなくて中退。それからは傘屋、靴屋、洋品店……いろんな職業をしたよ。給料が5000円なのに、33万円もした中古のバイク・陸王を買って、乗り回してた。その借金が払えなくなって大阪へ逃げて、2年ほど配送業をしたこともあったな。

――結構、ヤンチャだった?

南山:ハハハ。父親から金の問題は解決したから帰ってこいと連絡があって、それで東京に戻った。その頃に、カレーを自分で作ってみたんだよ。

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