コロナ禍の告白 実はノンケだった『薔薇族』伊藤文学編集長ロングインタビュー

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『薔薇族』誕生前夜

――伊藤氏の“ひらめき”の背景には、この時代特有の“事情”があった。

 僕は中学校1年の時に終戦でしょ、その頃は栄養もなかったし、マスターベーションする元気は無いんだよ。それで僕らは大学に入ってからマスターベーションの仕方を覚えちゃった。片思いなんかして、もやもやしてたから。そうすると、やめられないんだけど、その頃はマスターベーションは体に良くないと言われていた。それで僕なんか、結構悩んだんだよね。

 でも、ある日、何かの雑誌に、お医者さんがマスターベーションは体に悪くないって書いてたのを読んで、すごく気持ちが楽になったんだ。それを思い出して、僕と同じように悩んでいる人がいるだろうからこれを出そうって決めたの。

 タイトルは『ひとりぼっちの性生活―孤独に生きる日々のために―』ってして。僕も父親譲りで短歌をやってたんで、本のタイトルを考えたり見出しを考えたりするのは得意だったんだ。女性誌とかテレビの「11PM」でも取り上げてくれて、これがまた結構売れたんだ。2~3万部は売れたんじゃないかな。

 そしたら、読者から手紙がいっぱい来た。でも、僕は勝手に、女のこと考えてマスターべーションをするのが普通だと思ってたんだけど、手紙を読んでみれば、男の人なのに男のことを考えながらマスターベーションするっていうのが結構いたんだよね。

「銭湯に行ったときに男のモノを見て興奮して、片隅でこそこそマスターベーションしている」とか。そんな手紙があったから、そういう人の本を出せないかなって思うようになって。女好きの本ばかり出してたんだけど、この時から、考えががらっと変わっちゃったんだ。

――アイディアを得た伊藤氏は、さっそく企画を持ち込んでくれた秋山氏に相談。“書けます!”と快諾してくれた秋山氏とともに刊行したのは『ホモテクニック―男と男の性生活』。この本は3部構成で、第1部が歴史上のホモセクシャル、2部が文芸作品の中に出てくるホモセクシャルの紹介で、3部が男同士のテクニック。1968年のことだった。

 運が良かったのは、この本で使った写真の男性モデルが、ゲイの人に一番好まれるスポーツマンタイプだったこと。女性の写真家さんが撮ってくれたんだけど、これがナヨナヨしているような男だったらダメだったと思うんだよね。

 当時、新宿の伊勢丹前に名画座があって、そこがゲイの人たちの発展場だった。その隣に書店があったんだけど、そこが『ホモテクニック』を大量に置いてくれて、そこだけで何百冊って売れた。当時は新宿2丁目にゲイバーは20軒くらいしかなかったんだけど、そこのマスターなんかが5冊、10冊って買ってくれてね。それでこの本は第二書房始まって以来の大ヒットになったんだ。

 実は『ホモテクニック』を出す前に『レズビアンテクニック』という本も出した。やっぱりいきなりホモセクシャルの本を出すのは勇気がいったから。当時はストリップ劇場とかでレズビアンショーが流行ってたんだよ。新宿の電信柱なんかにレズビアンショーの看板なんかが出ててね。

――『ホモテクニック』でも成功を収めた伊藤氏は、父から譲り受けた「第二書房」を今度は、エロ本の出版社からホモ専門の出版社へと宗旨替えすることに。

『薔薇族』を出すまでにホモ向けの書籍を20、30冊は出したんじゃないか。やっぱり書店では買いにくいということで、我が家まで直接買いに来るゲイの人が結構いたんだよね。そういう人を応接間に上げて、話を聞くうちに段々僕も、ゲイの人たちの気持ちとか悩みが分かるようになった。

 当時の彼らには、「仲間が見つけられない」という人が多かったね。まだゲイバーの扉を開けるのは、よっぽど勇気のいる時代だったんだよ。それで思いついたのが、文通欄を主にした雑誌。そういう発想力は僕の良いところだと思う。だけど、問題があって、当時、僕は単行本を作った経験しかなかった。それである単行本の巻末に“ゲイ専門の雑誌を出したい”と書いたんだ。

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