美人ボウリングプロ「中山律子」語る“ブームの熱狂”  【発掘! 昭和のスポーツ秘話】

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 1970年(昭和45年)8月、女子プロのトーナメント戦の優勝決定戦。舞台は府中スターレーン。千人近いギャラリーを前に中山律子は、12投連続でストライクを出し、女子プロ初の公認パーフェクトゲームを達成した。これがボウリングブームに火をつけた。

 最後の投球は見ていなかったという。怖くて目をつむってしまったのだ。10本のピンが弾けたのは、場内の歓声でわかった。振り向いて、客席に向かって両手を突き上げる。その後のことはよく覚えていないという。

「もしパーフェクトを出さなかったら、たとえ優勝していても、違う人生になっていたと思う。そこから一気にスターになってしまったわけですから」

 中山律子さん(77)は当時を振り返ってそう微笑む。

「パーフェクトなんて、出そうとして出せるものではありません。じつは会場に行く途中、乗ったタクシーが事故にあって、逆に緊張感がとれた。それも良かったのかもしれません」

 このゲームが着火点となって、空前のボウリングブームが到来した。シャンプーのCMに出演して「さわやか律子さん」が流行語となり、NHK紅白歌合戦の審査員にも選ばれた。1期生の須田開代子(かよこ)、石井利枝と共に“花のトリオ”と呼ばれ、週7本のレギュラー番組に出演した。

「当時、ボウリング場はどこも待ち時間が3、4時間という大ブーム。電車で移動中にファンに囲まれて2時間半もサイン攻めにあい、手が腫れてボールに指が入らないこともありました。分刻みのスケジュールで、ファンレターも2、3日で段ボールに一杯になる。とはいえ有名になろうという気持ちはなくて、ただボウリングが好きだった。私は究極の負けず嫌いで、会場では負けてもクールに振る舞っていましたが、家に帰って来ると玄関で号泣。でも一晩寝ると忘れてしまう呑気さもありました(笑)」

 パーフェクトゲームの優勝賞金は30万円。大卒初任給4万円の時代には大金だったが、「何に使ったのか忘れてしまった」と笑う。

ミニスカート

 投球すると太腿があらわになるミニスカートは「恥ずかしかった」が、機能性を重視して取り入れた。そのたくましい太腿は、練習生時代、東京タワーの外階段を毎日3往復して鍛え上げたものだ。実力の須田、人気の中山と言われたが、努力の人でもあったのだ。

 そのボウリングブームは、1973年のオイルショックをきっかけに急速に萎(しぼ)んでしまう。ボウリング場は数年で全盛期の4分の1に減り、トーナメント大会の打ち切りも相次いだ。

 彼女自身は、74年に結婚し1女に恵まれた。だが、引退はしていない。通算のタイトルは33勝。その後JPBA(日本プロボウリング協会)等の会長としてボウリングの普及に努め、現在も川崎市の溝口にある「ムサシボウル」に週1回顔を出し、アマチュアを指導する日々を送っている。

「思えば、私はボウリングの一番いい時代に活躍できたんですね。そういう意味では本当に幸運でした。今もボウリング場を訪れると、あの熱狂の日々を思い出します。ボールがピンを弾く音が聞こえると、自分の家に戻ってきたような、幸せな気持ちになるんです」

週刊新潮 別冊「輝かしき昭和」追憶 1964-1989掲載

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