野村克也、戦後初の“三冠王”は「実力四分、ツキ六分」、ゲン担ぎの原点とは

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 今年2月11日に84歳でこの世を去った野球解説者の野村克也さん。現役時代には史上二人目の三冠王を達成するなど、輝かしい成績を残した名選手だった。そこで、今回は、野村さんが戦後初の三冠王を獲得した時のエピソードを振り返ってみたい。(以下、敬称略)

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 戦後初の三冠王は、“渋ちん”の契約更改がきっかけで誕生した。

 1964年、南海は日本シリーズで阪神を4勝3敗で下し、5年ぶりに日本一の座についた。主砲・野村克也も4年連続本塁打王、3年連続打点王の二冠に輝き、20勝投手のスタンカ、杉浦忠とともに栄冠の立役者になった。

 だが、年俸大幅アップが期待されたオフの契約更改で待っていたのは、まさかの20%ダウン提示だった。「打率(2割6分2厘)が低過ぎる」というのが表向きの理由だが、球団側が「野村ですら、ダウンなのだから」と引き合いに出し、他の選手たちの年俸アップを抑え込もうと意図していたのは明らかだった。

 交渉は越年となり、春季キャンプに自費参加するまでもつれたが、2月下旬、しぶしぶ3%ダウンでサインした。内心不満で一杯の野村は皮肉を込めて、球団社長に言った。

「給料を上げてもらうには、三冠王を獲るしかないですね」

 これまで5度の本塁打王、3度の打点王を獲得した野村にとって、唯一首位打者が“鬼門”だった。ところが、“三冠王宣言”した65年は、有言実行を後押しするかのように、次から次へと追い風が吹いた。首位打者争いの常連、張本勲(東映)、ブルーム、広瀬叔功(いずれも南海)が揃って伸び悩み、10月3日の時点で、3割2分7厘の野村がトップ。

 8月初旬にスペンサー(阪急)に最大7本差をつけられ、「一番苦しかった」本塁打も、「外国人にだけはタイトルは獲らせたくない」と、小山正明(東京)をはじめ、南海以外のチームの投手も敬遠攻めをしたことが幸いし、ライバルが足踏みする間にまんまと差を詰めることができた。

 そして、9月7日の西鉄戦で35号を放って逆転。同29日の東京戦で4年連続の40号を記録し、この時点で4本差をつけた。打点も2位・ハドリ(南海)に27差の106打点で、4年連続のタイトルはほぼ当確。シーズン終了まで残り13試合。悲願の三冠王は、もう目前だった。

 だが、スペンサーも、右足の痛みや執拗な敬遠攻めにくじけることなく、野村の三冠王阻止に並々ならぬ闘志を燃やす。直近10試合で28打数9安打、4本塁打の猛チャージで9月30日に3本差に迫り、打率も1分6厘差の3割1分1厘まで上げてきた。これに対し、野村は直近10試合で26打数5安打、1本塁打と調子を落とし、苦しくなった。

 10月3日、南海との直接対決に臨んだスペンサーは、ダブルヘッダー第1試合で、1回でも多く打順が回るように1番に起用されたが、南海バッテリーはハナから勝負する気がない。日本シリーズで対戦予定の巨人を偵察中の鶴岡一人監督に代わって指揮をとった蔭山和夫コーチが、野村にタイトルを獲らせるため、「オレが責任を持つから全部歩かせろ」と指示していたのだ。

 そして、阪急が10対0と一方的にリードした7回、スペンサーが打席に入ると、スタンドの観衆から思わずどよめきが起こった。

 なんと、スペンサーはバットを逆さに持って構えていた。森中千加良の3球目、明らかな敬遠球に対し、ヤケクソ気味にバットをぶつけると、思いがけず二ゴロとなり、スタンドは再び沸いた。

「初めはバットを持たずに入ろうと思ったんだ。どうせ四球だろうし、ホームラン以外は打っても(足を痛めて)走れないので無駄だからな。バットを逆さに持っても、手ぶらで打席に入るよりもましだろう。テレビでもやってたし、ファンにも打たせてもらえない気持ちを訴えたかったんだ」とスペンサーは悔しさをあらわにした。

 それでも、第2試合では、スタンカが助っ人同士の“友情”から真っ向勝負してくれたので、2打席目にレフト場外に特大の38号3ランを放ち、2本差とした。ところが、その2日後、思わぬ不運に見舞われる。
10月5日、近鉄戦が行われる日生球場に到着した野村は、広報担当から「三冠王決定です!」と言われ、目を白黒させた。

 実はこの日、西鉄戦に出場するため、バイクで西宮球場に向かっていたスペンサーが、軽四輪車と出合い頭の衝突事故を起こし、右足腓骨2ヵ所を骨折。全治2ヵ月の重傷を負っていたのだ。

 最大のライバルのまさかのリタイアで、本塁打王はほぼ確定。首位打者争いも、2位・スペンサーに加えて、打率3位の高木喬(近鉄)も10月3日から急病で欠場しており、野村を脅かす者はいない。かくして、“三冠王決定”となったというしだい。あまりにも出来過ぎた話なので、野村自身は、シーズン終了まで「(スペンサーのように)何か悪いことが起きるのではないか」と案じつづけていたという。

 だが、何事もなくシーズンが終わり、戦後初の三冠王を獲得。「今年のワシほど幸運に恵まれた男も少ないやろ。実力四分、ツキ六分が、ワシの三冠王の内訳やと思っている」。野村は心から“野球の神様”に感謝した。

 この体験をきっかけに、“ご利益”を信じるようになった野村は、ヤクルト監督時代にも、「勝った日はパンツを変えない」「神宮球場まで“そこを通ると勝つ確率が高い”ルートを多少遠回りになっても通う」などのゲン担ぎを好んで行っている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2019」上・下巻(野球文明叢書)

週刊新潮WEB取材班編集

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