正岡子規も観戦 日本野球で初の大乱闘「インブリー事件」はなぜ起きたか

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にっぽん野球事始――清水一利(6)

 現在、野球は日本でもっとも人気があり、もっとも盛んに行われているスポーツだ。上はプロ野球から下は小学生の草野球まで、さらには女子野球もあり、まさに老若男女、誰からも愛されているスポーツとなっている。それが野球である。21世紀のいま、野球こそが相撲や柔道に代わる日本の国技となったといっても決して過言ではないだろう。そんな野球は、いつどのようにして日本に伝わり、どんな道をたどっていまに至る進化を遂げてきたのだろうか? この連載では、明治以来からの“野球の進化”の歩みを紐解きながら、話を進めていく。今回は第6回目だ。

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 日本に野球が伝わってから約30年。20世紀に入ったちょうどそのころ、野球は学生たちの間でもっとも人気を集めるスポーツになっていた。その中で学生野球界をリードしていたのが一高だった。

 一高は現在の東京大学の前身で、外国人教師ホーレス・ウィルソンが野球を伝えた南校が1877(明治10)年に開成学校となり、その後、医学校や工部学校を吸収して1886(明治19)年に第一高等中学校、いわゆる一高となると同時にイギリス人教師ストレイジによって野球部の元となる「べーすぼーる会」が創設されたとされる(野球部の正式な発足は1919・大正8年)。

 このころ、すでに一高の他にも東京英和学校(のちの青山学院)、波羅大学(のちの明治学院)、慶應などでも野球が行われていたが、「べーすぼーる会」はやがて対外試合を行う「べーすぼーる部」へと発展する。そして、1890(明治23)年にはその初試合として高等商業学校(のちの一橋大)と対戦し、30点もの大差で圧勝したのを皮切りに各校をことごとく打ち破る。

 さらに一高は1896(明治29)年5月23日には横浜在住のアメリカ人で組織されたチーム「横浜アマチュアクラブ」と日本で初めての国際試合を横浜で行なって、これまた29対4で大勝、この試合の模様を新聞各社が大きく報じたこともあり、野球人気を一気に高めることとなった。

 一方、敗れた横浜アマチュアクラブはすぐ再戦を申し入れ、6月5日に第2戦が同じ横浜で行われた。しかし、一校は雪辱に燃える横浜アマチュアクラブを32対4という第1戦を上回る圧倒的点差で再び簡単に退け返り討ちを果たす。このため「一高強し」の感をさらに強くした。

 このころがまさに一高の黄金時代であり、その実力は慶應や早稲田などの私学の雄を一歩も二歩も抜きん出ていたといってもいい。まさに向かうところ敵なしだった一高だが、その一高に思わぬアクシデントが起きた。社会を騒がした「インブリー事件」である。

 事件が起こったのは1890(明治23)年5月2日(17日という説もある)、東京・本郷の一高グラウンドだった。この日、一高は白金倶楽部との試合を行なっていた。白金倶楽部は波羅大学(のちの明治学院)の野球チームの名称だが、当時、「打倒一高」を掲げていた私学の中でも着実に力をつけてきていたのが、この白金倶楽部だった。とはいうものの、実力的には一高が1枚も2枚も上であることは誰もが認めるところ。グラウンドに集まっていた一高の学生はもちろん、波羅大学の学生でさえも一高の勝利を信じて疑わなかった。

 ところが、試合は序盤から白金倶楽部が一高を圧倒、6回を終了し6対0と一方的にリードしていた。思いもよらぬ試合展開に一高の選手も応援団も苛立っていたことは想像に難くない。ちょうどその時、1人の長身の外国人がグラウンドの正門で守衛と対峙していた。すでに試合が始まっていたため正門が閉められていたのだが、その外国人は、「自分は波羅大学の者である。中に入れてほしい」と頼んでいたのだ。

 その外国人こそがいまも野球史にその名を残す、事件の主役となってしまった波羅大学教師のインブリー博士だった。インブリー博士は守衛に必死に訴えたが、守衛は英語が分からず首を横に振るばかり。仕方なくインブリー博士は垣根を越えてグラウンドの中へと入っていった。

 ところが、一高応援団の中にそんなインブリー博士の行動を見ていた学生がいた。そのうちの何人かが、たちまちのうちに博士を取り囲んで糾弾した。彼らは、どこの誰だか分からない外国人が自分たちのグラウンドに突然、しかも正門ではなく垣根を乗り越えて入ってきたその行為は自分たちに対する侮辱であり、無礼だという。おそらく一高の学生にしてみれば、敗色濃厚な試合でフラストレーションがたまっていたのだろう。そこに偶然やって来たインブリー博士の何でもない行動が、そのはけ口になってしまったのだ。

 しかし、博士には学生たちがどうしてそんなに怒っているのか、意味がまったく分からない。そのまま、ただその場に立ち尽くすだけだった。そしてその時、事件が起きた。興奮した1人の学生が博士に向かって石を投げつけ、それが博士の頭に当たって血が噴き出るという事態になったのだ(石を持って殴りつけたという説もある)。ますます騒ぎが大きくなると波羅大学の学生も駆けつけ、今度は学生同士の小競り合いとなって現場は騒然とした。

 もちろんこうなってくると野球どころではない。結局、試合はその時点で中止になり、事件の詳細は翌日の新聞で詳しく報じられて大きな社会問題となった。いうまでもないことながら事件は一高側に非があったのだが、日本の野球史を考えるうえでは見逃すことのできない出来事となった。この事件以降、それまで野球に関心を抱いていなかった学生も興味を持ち出し、一高の野球熱がますます高まる結果となったからである。

 ちなみに、この歴史的な試合を正岡子規も観戦していたらしい。子規は著書「筆まかせ・第三のまき」で、序盤で大きなリードを許した母校一高の戦いぶりについて、「学校と明治学院とのベースボール・マッチありと聞きて往きて観る。第四イニングの終りに学校は巳二十余程まけたり。其まけかた見苦しき至り也」と書き記している。

【つづく】

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年3月21日掲載

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