多川俊映(興福寺寺務老院)【佐藤優の頂上対決/我々はどう生き残るか】

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 心理学が誕生する遥か前から、日本の仏教には心の動きを探究する「唯識」という教えがある。昨年まで30年間、貫主を務めた奈良・興福寺の多川俊英氏はその第一人者だ。情報に追われて落ち着かない日々の中、充実した生を送るにはどうすればいいのか。高僧による「生きるヒント」。

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佐藤 昨年、30年間務められた興福寺の貫首(かんす)を退任され、「寺務老院」にお就きになりました。

多川 はい。「寺務老院」というのは今回、新たに創設した立場です。かつて興福寺の住職には「別当」「貫首」「寺務」の三つの名称がありましたが、明治以降、「寺務」が使われていなかった。それを復活させようと思いました。貫首が社長なら、寺務老院は会長のようなものです。

佐藤 いま、多川先生が再建された中金堂(ちゅうこんどう)の前を通ってきましたが、その壮麗さに圧倒されました。貫首として打ち込まれた最大の仕事ですから、いま振り返っても感慨深いのではありませんか。

多川 そうですね。その中金堂は2018年に、300年ぶりに再建されました。天平時代に創建された興福寺は火事の多い寺で、実に7回も焼失し、そのたびに建て直してきた。今回で8回目、いわば七転び八起きです。

佐藤 総工費が約60億円と聞きました。以前、お目にかかった時には、その柱を世界中で探し回っておられた。

多川 日本にはもう再建に必要な大径木がなかったのですよ。「身舎(もや)」と呼ばれる中心部分には、カメルーンなどから取り寄せた直径77センチ、長さ9・9メートルの欅の大木が36本使われています。

佐藤 本当に大掛かりなプロジェクトでしたね。

多川 「天平回帰」が合言葉でした。発掘調査で中金堂の礎石66個のうち、64個までが創建時のものとわかった。礎石は創建当初から動いておらず、これまで焼けるたびにその上に再建してきました。天平に戻りたい、という強い思いが、興福寺には受け継がれているのです。

佐藤 興福寺はもともと藤原氏の氏寺(うじでら)ですね。

多川 和銅3年、西暦では710年の平城遷都に合わせ、藤原鎌足の子不比等(ふひと)が藤原京にあった厩坂寺(うまやさかでら)を移して、現在の場所に創建しました。

佐藤 火災もそうですが、大きく歴史に翻弄されてきた。かつては広大な土地を持ち、僧兵がいて延暦寺と二分する勢力を誇っていた。それが明治維新の神仏分離で、徹底的に弾圧されました。

多川 隣の春日大社と興福寺は一体で、「春日明神は興福寺を守護し、興福寺は春日明神を扶持す」という言葉もあります。それが慶応4年(1868年)の「神仏判然令」で、春日にあった仏像はお寺に、興福寺にあった社殿は向こうに移管されました。明治4年までは知行がありましたが、同年の「上地令」でそれがなくなる。明治8年からは唐招提寺と西大寺の長老が興福寺を管理するようになりますが、その間の4年は無住、つまりは住職がいませんでした。

佐藤 明治政府は本当に興福寺を潰すつもりだったのですね。

多川 その4年間に末寺(まつじ)はみんな独立していきました。

佐藤 どのくらいあったんですか。

多川 山内や大和国だけで100とか200という単位です。

佐藤 その後、それらのお寺は戻ってこなかったのですか。

多川 そのままです。西大寺の末寺には、旧興福寺の末寺が多いですね。しかし、その西大寺も薬師寺も唐招提寺も法隆寺も、元はみんな興福寺の末寺です。室生寺は、もともと興福寺が造ったお寺ですし。

佐藤 神仏分離は、日本史で稀に見る規模の宗教弾圧と言えますね。

多川 そうです。ただ、神仏分離とはいえ、奈良の寺院では、信仰の内容までは変えられませんでした。例えば、私どもの法要の中で、あらゆる神様をお招きして法要が滞りなく執り行われますように、と祈請する一段があります。これを「神分(じんぶん)」と言いますが、明治時代に削ったということはない。興福寺をはじめとする奈良の仏教は神仏習合でやってきましたし、今も神仏習合が当たり前ですよ。

佐藤 興味深いです。もう少し時代が下って、昭和15年、皇紀2600年に仏教界で教派合同がありました。その時はどうでしたか。

多川 その影響はほとんどなかったですね。次に大きく変わったのは戦後です。明治時代はまだ藤原氏の氏寺という意識が濃厚で、藤原氏の末裔の力も強く、政府にモノ申す人たちがいました。興福寺に物心ともに大きな援助をしてくれていた。けれども先の戦争で藤原氏もみんな没落してしまう。

佐藤 華族制度が廃止されましたからね。

多川 だから昭和20年以降は、もう藤原氏の氏寺ではなくなったというのが私たち興福寺の認識です。

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