今日で「松田優作」没後30年 崔洋一監督が語る「探偵物語」秘話

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 名優・松田優作さんが、膀胱がんによって40歳の若さで他界してから11月6日で30年。今年は生誕70年でもある。いまだファンたちは松田さんを忘れず、その存在は輝きを失っていない。どうしてなのだろう? 松田さんの親友だった映画監督の崔洋一さん(70)=日本映画監督協会理事長=に話を聞いた。(以下、文中敬称略)

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 優作と僕は同い年。お互いに27歳だったときに出会い、優作が亡くなる40歳までの13年間、付き合った。あれから30年。一緒に過ごした年数の、倍以上の月日が過ぎてしまったわけだけど、お互いに若く、密度の濃い時間を過ごしたこともあって、記憶に新しいね。

 初めて会ったのは渋谷(東京)の雑居ビルの地下にあった一室。映画「最も危険な遊戯」(1978年)のスタッフルームだった。この映画の主演が優作で、僕はチーフ助監督。正直、2人とも業界での評判は良くなかった(笑)。どちらも荒っぽかったからね。

 優作は顔を合わせるなり、「俺が優作だ。おまえが崔か。今から飲みに行こう」と、ぶっきらぼうに言うんだ。まだ午後3時ごろですよ(笑)。仕事中だった上、僕は役者とは飲まない主義なので、断ったところ、優作は「じゃあ、そのうち機会を作ってくれよ」と言い残し、帰っていった。

〈「最も危険な遊戯」は村川透が監督で、松田が演じる殺し屋・鳴海昌平を主人公とするハードボイルド・アクション。「太陽にほえろ!」(日本テレビ、1973年)のジーパン刑事や「俺たちの勲章」(同、1975年)で既に人気を得ていた松田が、映画俳優の地歩も固めた作品だ。元東大総長で映画評論家の蓮実重彦(83)が大絶賛したことでも話題になった。〉

 優作は暴力至上主義ではなかったけれど、彼という存在の暴力性は非常に強かった。そして、それを支えているものは、軽妙でしたね。暴力性一本槍の俳優だったら、掃いて捨てるほどいるけれど、優作はバイオレンスもある一方で軽妙洒脱だった。優作と2人で、「俺たち野蛮だけど、ときどき知的だよね」と話し、笑ったこともありましたよ。

〈「最も危険な遊戯」は商業的にも大成功を収め、同じ1978年には「殺人遊戯」、翌1979年には「処刑遊戯」が作られる。プロデューサーは3作とも映画界で伝説の人物となりつつある東映セントラルフィルム(現セントラル・アーツ)の故・黒澤満。松田は包容力のある黒澤を慕った。映画「野獣死すべし」(1980年)、同「ア・ホーマンス」、ドラマ「探偵物語」(日本テレビ、1979年)も黒澤のプロデュース作だ。〉

 黒澤さんや日テレ、そして優作の意向があったので、「探偵物語」の助監督も担当しました。黒澤さんと日テレは、僕をこの作品で監督デビューさせるつもりだった。優作もそれを望んでいました。

 僕が「探偵物語」でやったことはというと、まず優作が演じた工藤俊作の衣装の決定かな。帽子とスーツ、ネクタイ…。シャツを赤にしたのは優作自身のアイディア。僕は「止めたほうがいいんじゃねぇか」と言ったんだけど、ぴったりとハマった。工藤の愛車をベスパにしたのも優作の考えでしたね。

 工藤の出自は僕が考え、これに優作が乗ってきた。北アメリカのアイビーリーグに留学した過去があるが、ニューヨークで皿洗いをしていた時期もある男。アメリカでいろいろやった末、帰国したということにしました。

 「太陽にほえろ!」のころよりコミカルな芝居がうまくなったという指摘があったけれど、いろいろな経験を経て、少し世界が変わったせいかもしれませんね。当初入った文学座では、軽妙さとは違ったものが評価につながっていたと思います。それが、故・岸田森さんがやっていた6月劇場に出入りしたことなどにより変わっていった。

 加えて忘れてはいけないのが、あの時代には萩原健一さんがいたこと。存在によって見る側をクスリと笑わせるショーケンの演技を、優作も意識したはず。自分なりの笑わせ方を模索したでしょう。その模索の結果を出したのが「探偵物語」だったんじゃないですか。

 「探偵物語」のエンディングの映像も僕が撮った。現場は、今はもうないですけれど、渋谷のPARCOの脇でした。

 それが済んだら、優作に重要な話をしなくてはならなかった。「探偵物語」の監督が出来なくなったんです。助監督を途中で降りなくてならなかった。以前から助監督に付くことを約束していた若松孝二さん(故人)制作の映画「戒厳令の夜」(1980年、監督・山下耕作)の撮影が始まることになったものですから。

「優作、ちょっと話がある」

「おぅ、なんだよ」

「きょうで『探偵物語』最後なんだ」

「なにぃ! どういうことだよ」

「若松さんとやらなくちゃならないんだ」

「てめぇ、この野郎!」

 いやー、怒りましたね(笑)

〈松田が怒ったのも無理はなかったかも知れない。松田は崔の才能を高く評価した上で、その監督昇格を応援していたからだ。半面、崔も若松との親交が深く、その縁で、1976年にはやはり若松氏がプロデュースした故・大島渚監督の「愛のコリーダ」のチーフ助監督も務めている。一方、全27話が放送された「探偵物語」は大当たり。SHOGUNが歌ったオープニングテーマ「Bad City」とエンディングテーマ「Lonely Man」もヒットした。〉

 優作の理想とする演技は、ときに監督の想像力から越境するというスタイルでした。だから、監督と意思が通じるかどうかは優作にとって重要だったと思います。村川さんのように、波長が合う人でないとダメでした。だけど、優作をヨイショすればいいのかというと、それは全く違った。拒みましたね。

 では、彼がなぜ未だに愛され続けるかというと、異形だからですよ。ちょっと普通と違うんだ。ノーマルじゃない。日本のオーソドックスな名優たちは生真面目で熟成度が高くて、人品卑しからぬ方々ですが、優作はそうじゃない。冒険者だったと思いますね。だから忘れられない。

〈松田は俳優仲間に向かって「おまえたちは俺に絶対勝てない。なぜなら、俺は24時間映画のことを考えているからだ」と語ったことがあるという。映画「野獣死すべし」(1980年)の撮影入り前には、主人公・伊達邦彦に扮するための役づくりのため、10kg以上減量する。その上、頬がこけて見えるように上下4本の奥歯を抜いてしまった。それでも伊逹を演じるには自分の身長が高すぎる(185cm)と悩み「足を5cmくらい切断したい」と漏らしていた。

 荒っぽい俳優はどんどん減り、みんなコンプライアンス社会に合わせるかのように優等生になりつつある。歯を抜いてしまうような俳優もまたいない。確かに、見る側は松田の異形性にも惹かれていたのだろう。〉

 遺作となった「ブラック・レイン」(1989年)の撮影中、優作は既に体調が悪かった。それでも初のハリウッド映画を優先し、自分の体を犠牲にした。これも普通じゃないのかもしれない。ある種の暴力性です。今、「ジョーカー」が大ヒットしていますが、ジョーカーを演じるホアキン・フェニックスにつながるような、闇の部分を含めた優作の深淵が、あの映画では全面展開されている。生と死のギリギリのところでの演技でしたから。

〈「ブラック・レイン」の主演はニューヨーク市警の刑事役、マイケル・ダグラス。松田は凶暴なヤクザ・佐藤浩史役で、ダグラスに捕まり、日本に護送されるが、途中で逃亡に成功。その後、日本側の刑事・松本正博(故・高倉健)らも加わって、日米の刑事たちとヤクザが戦うことになる。

 撮影後、マイケルは松田に対し「ジョン・ローンのような人気が得られるのではないか」と最大級の賛辞を贈り、この映画を見たロバート・デ・ニーロは「日本にこんな凄い俳優がいたのか」と新作映画のオファーを行った。日本での公開は1989年10月7日で興行的にも大成功。だが、松田は約1ヶ月後の同11月6日、急逝する。〉

 優作の作品で好きなものを挙げたら、「最も危険な遊戯」「探偵物語」「家族ゲーム」(1983年)と「ブラック・レイン」かな。

 今、もし優作が生きていたら、どうなっているかって? そんなことは想像したくないよ。40歳で亡くなったのが松田優作の人生。そもそも彼は作品を残している。これは重要なことだろうね。

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 松田が慕った黒澤満プロデューサーも2018年11月30日に逝った。その1周忌と松田の没後30年ということで、黒澤が企画して、1990年12月3日に都内で行われた「CLUB DEJA-VU ONE NIGHT SHOW 松田優作・メモリアル・ライブ+優作について私が知っている二、三の事柄」が、初DVD化されることになった(2020年2月5日発売、発売元/販売元 :東映ビデオ株式会社/東映株式会社 )。

 松田の死の1年後に集まった友人たちによる幻のライブ。その面々とは、故・原田芳雄、故・内田裕也、宇崎竜童(73)、水谷豊(67)、桃井かおり(68)石田えり(58)原田美枝子(60)…。松田への熱い思いを語り、歌っている。

 日本郵政の「郵便局のネットショップ」は松田優作の生誕70年を記念し、ドラマ「探偵物語」の名シーンを収めたフレーム切手とオリジナル台紙、さらに劇中の名場面をデザインしたTシャツのセットを、ネットショップ上で販売している。価格は1万3000円。Tシャツではなく、フレーム切手とポストカード10点、クリアファイル2点のセットもある(7700円)。過去には石原裕次郎、美空ひばりらも切手になっている。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
ライター、エディター。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年11月6日掲載

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