「世界一うまい羊肉はイラク産だ」と戦場ジャーナリストが語る理由

食・暮らし 2019年8月27日掲載

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 羊肉がブームだ。かつての一部のマニア向けとは違い、今やスーパーでも普通に売られるようになった。羊肉を看板に掲げるレストランも多く、レシピ本も刊行されるなど「羊食い」にはたまらない状況だろう。

 もっとも、「松阪牛」「神戸牛」等がブランドになっている牛肉、「黒豚」「アグー豚」等がブランドになっている豚肉と比べると、「どの羊肉が美味いのか」といったところまで関心は深まっていない。が、当然ながら羊肉にもやはり、うまい、まずいがある。

 かつて世界を股にかけて取材をしていたジャーナリストの松本仁一氏は、「イラク戦争の時に現地で食べた羊肉こそ世界一だった」と語っている。

「そりゃ極限状況で腹が減っていただけじゃないの?」

 そう疑う向きもいらっしゃるだろうが、必ずしもそうではないようだ。以下、松本氏の新著『国家を食べる』から、「イラクの羊肉こそ一番だ」と熱く語る理由と、それにまつわる少し悲しい物語を見てみよう(引用はすべて同書より)。

「アラブ世界で『肉』といえば、それは羊肉である。その羊肉だが、イラクが断然うまかった。羊肉なんてしょせん羊肉、あんなもの国によって差があるはずはないと思われるかもしれない。しかし肉の柔らかさ、脂身の甘さなど、イラクで食べたヒツジは確かにうまかったのである」

 イスラム教では豚肉はタブー。牛肉は食べてもいいが、年をとった役牛をつぶした肉しか出回らないから、固くてまずいと人気がない。鶏肉が売られるのは専門店でのみ。ラクダ肉は安いが、脂肪が多くてアクが強く、貧困層が住む地域のラクダ専門店でなければ手に入らない。アラブの世界では、精肉店で普通に売られている肉は羊肉なのだ。つまりそれだけ客の舌も肥えている。だから自然と味は向上するというわけだ。

 そして、その羊食いのアラブ世界でも、イラクの羊肉は別格なのだという。バグダッドの繁華街で、アラビア語で「ザ・ナンバーワン」という意味のレストラン「アルアウエル」を経営するハレド・ブトロス・マンスールさんは、2003年、イラク戦争の取材で現地入りした松本氏に、こう胸を張って語った。

「肉の決め手は脂身だ。脂身は肉にうまみを与える。そんな脂身のうまい羊は、モスル(イラク北部の都市)の草を食っているやつだけなんだ」

 ハレドさんは故郷のモスルで代々精肉店を営んでいたが、思いきって首都・バグダッドに進出して羊肉の串焼きの店を開いた。店は大繁盛して200席、従業員は60名のバグダッド最大の店となる。

 旧約聖書によると、人類の先祖はアブラハムという、4千年ほど前にイラク北部のチグリス川上流で暮らしていた羊飼いだ。イスラム教でも同一人物で、アブラハムはイブラヒームと呼ばれている。

「そのころからイラク人はヒツジを食べていたんだ。その年季の入った羊食い文化がうまいヒツジをつくり出し、うまい食べ方を生み出した」とハレドさん。戦時下でも、料理人として、また羊肉文化の担い手としての矜持をもって極上の羊肉を提供していたのだ。

 しかし、03年のイラク戦争によりフセイン政権は崩壊。スンニ派とシーア派の宗教対立、テロの応酬でレストランでも爆弾テロが頻繁に起きるようになる。

 その頃もまだハレドさんは健在だったが、05年、松本氏からの電話にはこんな後悔の念も語っていた。

「バグダッドに出たのは間違いだったよ。家族が無事なうちにモスルに帰る。もういちど肉屋から始めるよ」

 しかし14年6月に、モスルは過激派のIS(イスラム国)に占領された。イラク軍との戦闘が激化し、街並みは爆撃で徹底的に破壊される。17年にイラク軍がモスルを奪還したが、松本氏が何度電話しても、もうハレドさんが電話に出ることはなかった。

「ナンバーワン」の羊肉は、もう食べられない。

デイリー新潮編集部