テレビ局の取材が殺到するスーパー「アキダイ」、秋葉社長が語る“テレビに出る理由”

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原点はアルバイト

 少し古い話になるが、TBSラジオの「ジェーン・スー 生活は踊る」は18年6月、2回目となる「スーパーマーケット総選挙」を実施。横浜市に本社を置くオーケーが2連覇を果たした。

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 実際、ネット上には「イオンも逃げ出す『OKストア』の半端ない集客力」(まぐまぐニュース:18年7月9日)といった記事もアップされている。

 だが、日本一の知名度を誇るスーパーといえば、東京都練馬区に「関町本店」を構えるアキダイかもしれない。何しろGoogleに「スーパー アキダイ」と入力し、「ニュース」で検索をかけてみると、続々と記事が表示されるのだ。

◇テレビ朝日「値上げは売り手も困る! 特売の常連商品消えるかも」(5月31日)
◇毎日新聞「GDP速報値 数字と実態に差 景気の不安要素色濃く」(5月20日)
◇FNN PRIME「ウインナーソーセージ 2袋セット販売のナゾ」(5月16日)

 午後の情報番組や夕方のニュースでは、アキダイの秋葉弘道社長(50)を見ない日は珍しいといっても過言ではない。異常気象で野菜の価格が高騰すれば、出演する確率は相当に跳ね上がる。冒頭に顔写真を掲載したが、「見たことある!」と叫ぶ方も多いだろう。

 なぜ秋葉社長はメディアに引っ張りだこなのか。そもそも、いつアキダイは誕生したのか――。インタビューを依頼すると、快諾をいただいた。まずは、アキダイ開店の経緯から始めたいが、社長は「埼玉の工業高校に通っていた時、八百屋さんでアルバイトをさせてもらったのが原点です」と振り返る。

「アルバイトは本当に楽しかった。大人の人たちと一緒に働けるのが嬉しかったし、八百屋は話術が売れ行きに直結します。僕は小学生の時から口べたで、周囲とはケンカばかりでした。担任には常に怒られて、それがコンプレックス。克服しようと、高校で生徒会長に立候補したこともあります。『購買部にパンしかないのはおかしい。弁当も売るべき』と公約に掲げると当選しちゃった(笑)。先生と協議して弁当を置いてもらうと、周りから“弁当会長”ってあだ名をつけられました」

 秋葉社長は「まあ、ヤンチャな高校生でした」と苦笑する。茶髪でパーマの高校生が、必死に主婦へ野菜や果物を売り込む。すると面白いほど手応えがあった。1日で桃を100箱以上、売ったこともある。

「午前9時から仕事でしたが、自分で売り場を準備したほうが働きやすいって気づくんです。そこで1時間前に出勤して野菜や果物を並べるわけです。バイト代は日当。10時間6000円でした。1時間早く出勤すると時給は減ります。でも、そうやって自主的に働いていると、周りの社員さんが、ちゃんと見ているんですね」

 埼玉は西武ライオンズのホームタウン。秋葉社長は昭和43年生まれで、清原和博(51)が42年生まれの1歳上。社員から「秋葉は青果界の清原、スーパールーキーだ」と絶賛されたという。

「お世辞だったんでしょうけど、そりゃあ嬉しいですよ。もっと頑張ろうと思うじゃないですか。気がつくと、高校3年間を八百屋で働き続けて、客商売の基礎をしっかりと叩き込まれました。非常に充実した修行をさせてもらっていたんです」

 高校3年生になり、進路を選ぶ時期になった。高校からは「東京電機大学の推薦枠が1つある」と進学を勧められた。だが当時、父親の仕事が思わしくなくなっていた。兄と共に伝票の製本を生業としていたのだが、伝票の電子化が進み、需用が減少してきた。経済情勢もバブルが弾け、不景気の様相が強くなってきた。更に父親は住宅ローンも抱えていた。

「無理を言えば大学に行かせてもらえたとは思いますけど、そんな気持ちになれなかった。担任に『就職したい』と相談したら、大崎電気工業から内定をいただきました。一部上場企業だから両親も喜んでくれましたね」

 入社すると「えらく元気のいい高卒がいる」と評判になり、検査部門に配属された。電力量計を筆頭に、自社製品のチェックを行う。上司には可愛がられ、前途洋々の未来が開けたはずだった。しかし、秋葉社長は悩み始めた。

「やっぱり大企業は自分を殺さないと務まらない。おまけに不平不満ばかりに言うようになってしまった。初任給が10万円で嬉しかったのに、慣れると『給料が安い』と愚痴をこぼす。週休2日なのに『忙しくて遊ぶ時間がない』と不満を感じる。建物の中で検査、検査の毎日で、太陽も風も雨も感じない。八百屋には四季がありました。バイトの充実した日々を思い出していると、『このままでは自分が駄目になる』と痛感したんです」

 可愛がってくれた上司が「来年からは、ここはお前に任せて実家に帰れる」と喜んだのを見て慌てた。上司が退社してからでは辞められない。慌てて先に辞表を提出した。「父親が体を壊した」と嘘をついた。

「そしてアルバイトでお世話になった八百屋に入社したんです。母親は反対しましたが、父親は意外に『好きにやらせればいいだろう』と応援してくれました。あの頃、僕が使う金は、1日に100円。早朝に青果市場に行って仕入れると、先輩たちは食堂で朝食です。その間に僕は仲卸さんを回って、野菜の目利きを教えてもらう。先輩たちが車に戻ってくると、僕が運転しながら母親が作ってくれたおにぎりを食べる。昼飯もおにぎり。100円は、午後にジュースや缶コーヒーを買うために持っていました」

 心の底から八百屋の仕事が楽しかった。社内だけでなく、社外でも人気を呼び「10年に1度の天才」とまで言われた。実際に成果も出して22歳で店長に就任すると、徐々に独立を意識するようになった。

「でも八百屋しか知らない怖さも感じて、運送業者に転職しました。家電メーカーの子会社で製品を店舗に運ぶ仕事でした。ところが運転中に八百屋が視界に入ると、売れ行きや店の雰囲気をチェックしてしまう。『テナント募集』の張り紙を見ると、八百屋が出せるか考えてしまう。ようやく『本当に八百屋が好きなんだ』って実感することができて、独立を決心できました」

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