マッカーサーも脱帽! ラバウルで愛された日本人将校の「武士道」

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 今村均という陸軍将校の名前を聞いたことがあるだろうか。太平洋戦争において、司令官として南太平洋戦線で戦った人物である。

 南太平洋戦線と言えば、ガダルカナル島での惨敗をはじめ、日本軍の失策が続いた印象があるが、その中で数少ない健闘を見せたのがラバウルの第8方面軍を率いた今村であった。

 陸軍研究で知られる政治外交史学家で、現在は国際協力機構(JICA)理事長を務める北岡伸一さんは、パプアニューギニアへの出張の際にラバウルを訪れ、そこで今村の生き方について思いを巡らせたという。

 近著『世界地図を読み直す:協力と均衡の地政学』(新潮選書)の中から、今村に関する記述を再構成して紹介しよう。

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 2016年に南太平洋島嶼国へ出張した北岡さんは、ソロモン諸島のガダルカナル島を訪れた。

「私はかつて日米両軍が激しく争ったホニアラ国際空港(日本軍設営当時はルンガ飛行場、米軍支配下ではヘンダーソン飛行場)の管制塔の近くに立ち、一木支隊や川口支隊が攻撃してきた方向を見ることができた。低い山勝ちの地形で、満足な武器もなく、情報もなく、あのあたりに潜んでいたのかと、暗澹たる気分になった。また海岸には輸送船の残骸がなお残っており、その近くに慰霊碑があって、『ソロモンにつづくこの海凪ぎわたる かもめとなりて還れ弟』という兵士の姉の悲痛な歌が刻まれていた。

 日本側の兵力は総員3万6千人、うち戦死など2万2千人という惨憺たる結果だった。とくにガダルカナルを悲惨なものとしたのは、補給が途絶し、餓死、病死が続出したことである。餓島と言われたこともある。戦死者のうち、事実は戦死5千、餓死・病死1万5千と言われている」

 パプアニューギニアのラバウルを訪れた北岡さんは、今村について次のように記している。

「悲惨な南太平洋戦線の一つの慰めは、今村均の存在である。今村は、開戦とともに、第16軍司令官としてジャワ作戦を指導して成功を収め、ジャワにおいては、スカルノやハッタなどの独立運動家を釈放し、オランダ人に対してもインドネシア人に対しても寛大な政策を敷いた。東京から強圧的な政策をとるよう指示があったときも、これに抵抗している」

 有能な軍人であった今村は、統治者としてもその寛大な施政で現地の人々に敬愛された。その後、第8方面軍の司令官に任ぜられ、ラバウルに着任する。

「すでに退勢は覆い難かったが、今村はただちにガダルカナルの将兵の救出に取り組み、餓死寸前だった1万名を救出することに成功した。ほとんど奇跡であった。

 また今村は、ラバウルにおける弱点は食糧補給にあることをただちに理解し、食糧自給の方法を研究させ、農地を切り開き、耕作させた。また地下要塞を作り、兵士の居住空間のみならず、病院、兵器や弾薬を製造する工廠、それに小型の艦船を収容する場所まで備えさせた。米軍は、ラバウルを攻撃するのはリスクが大きいと考え、結局、ラバウルを回避して、進軍を続けたのである」

 しかし、北岡さんが評価するのは、むしろ今村の敗戦後の生き方だという。

「敗戦後、オーストラリアは今村を死刑にしようとしたが、理由が見つからず、かつ、住民も今村を慕って、これに反対した。結局、1950年、禁錮10年とされ(ジャワ時代に関するオランダ軍による裁判では無罪とされた)、巣鴨プリズンで服役することになったが、今村は部下が南方の劣悪な環境で苦しんでいるときに自分だけ東京で収監されるのは耐えられないとして、南方で服役したいとマッカーサーに直訴した。マッカーサーは、初めて武士道精神の持ち主に会ったと、これを激賞し、ただちに今村をパプアニューギニアのマヌス島の監獄に送った。今村はこの間、部下が冤罪の疑いをかけられたときは進んで弁護し、虐待には抗議し、積極的に司令官としての仕事を果たした。

 刑期を終えた今村は、終生、世にでることなく、逼塞して年金生活を送った。そして、2冊の充実した回想録を残した(『私記・一軍人六十年の哀歓』正続)。私が軍の研究を始めたころ読んで感銘を受けた本である」

 南太平洋で今村の足跡を辿った北岡さんは、国際協力への決意を新たにしたという。

「こうした島々で、JICAは政府開発援助を続けている。青年海外協力隊やシニア・ボランティアも活躍している。全部が成功というわけではないかもしれないが、地域に入り込んで活動し、住民の信頼を獲得することに成功している。戦争で勝ち得なかったものを、今、平和のうちに勝ち取りつつある。この流れをさらに進めて行かなければならないと思う」

デイリー新潮編集部

2019年6月4日掲載

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